静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

伊丹十三の沈黙、タモリの「中洲産業大学」(高貴さについて・2)

前回は、伊丹十三さんが「13の顔を持つ男」として多彩な力を発揮していた根には、
確かな審美眼をベースにした「高貴」さが備わっていた、ということを簡単にご紹介させていただきました。


その精神を育んだものとは何かを探している折に、こんな対談に出会いました。

浦谷「うん、で、いざ本気で調べようとしたらね、


伊丹さんの履歴書には、ある時期に、 穴というか空白があることに、気づくんです。


糸井「へぇー‥‥、空白。」




ほぼ日刊イトイ新聞 『天才学級のきざなやつ? 「13の顔」を持っていた、伊丹十三さんのこと。』


第4回「天才学級のきざななやつ。」より

これは、糸井重里さんが、第1回伊丹十三賞を受賞されたときに組まれた「伊丹十三特集コンテンツ」のひとつ、
テレビマンユニオン副社長・浦谷年良さんとの対談です。


周囲にほとんど語られていない「沈黙」とは、高校の時分、休学と留年をしていたときのことだそう。
ここには、彼の才能と人生の源泉がありました。


伊丹さんの生い立ちは、とても数奇です。


1933年5月15日生。本名は、「池内義弘」。


伊丹家では代々、男子に「義」の字を受け継ぐという習わしから、祖父によって名付けられました。
しかし、父・万作さんがつける予定だった名前は「岳彦」。
家庭内ではこちらで呼ばれており、これを通名としていたようです。


十三さんと親しい仲間は、「タケちゃん」と呼びます。


父・伊丹万作はいわずと知れた映画監督・脚本家です。

赤西蠣太 [VHS]

赤西蠣太 [VHS]

(脚本兼監督)

無法松の一生 [DVD]

無法松の一生 [DVD]

(脚本家として参加)

十三さんは父のことを「いつも怒っている怖い人」という印象を持っていたといいます。


彼が「師匠」と読んでいたカメラマン・佐藤利明さん*1の話。

佐藤「僕が忘れられないのは、あれですよ、 飛行機の模型の話だよね。」


ほぼ日「飛行機の模型。」


佐藤「お父さんは、若くして結核になって、ずっと床についていたじゃないですか。
いつも不機嫌だったらしいんです。
悔しかったんだろうね、才能にあふれた人だから。 」


ほぼ日「はい。 」


佐藤「戦時中のある日、伊丹少年がナイフで木を削って模型飛行機を作ったんですよ。
イギリスの戦闘機。
一生懸命、伊丹少年は作ったわけです。


ほぼ日「戦闘機を。 」


佐藤「そしたらね、お父さんはどうしたか。伊丹さんが言ってました。


『親父は何を思ったか、こんなもん飛ぶわけないだろうって、足で踏みつぶしたんだよ』って。


ほぼ日「‥‥踏みつぶした。」


佐藤「だから、結核でイライラしてたらしいんだ。
自分の同僚たちがさ、大活躍してるのに。 」


ほぼ日「はい、それは悔しかったことでしょう。」


佐藤「万作さんって、『赤西蠣太』とかさ、名作揃いですよ、あの人の脚本は。
めっちゃくちゃ上手いもんね。


僕もあこがれてましたよ、万作さんには。」


ほぼ日「伊丹さんにとって、お父さんの存在というのはやはり常に大きなものとしてあったのでしょうか。 」


佐藤「まあ、そうとう意識はしていたでしょうね。」




ほぼ日刊イトイ新聞 「伊丹さんが『師匠』と呼んだ男。」


第3回 伊丹万作さんのこと。 より

十三さんが物心ついたときには、父は偉大な業績を残した監督でありながら、既に肺病で床に伏せっていました。
病の苦しさ、無念さからくる怒りは、想像するだけで胸が潰れます。


十三さんから見た万作さんも、一筋縄ではいかない存在です。
病床にいながら、鋭い才もみせていたことでしょう。


一般的な家長のイメージからはかけ離れているように思います。




彼が生まれたのは「戦中派」とカテゴライズされる時期で、教科書に墨を塗るような経験をしている世代です。
しかし、十三さんはそのような世代においては、かなり珍しい環境で育っています。


彼の母親は、相当に教育熱心な方だったようです。
十三さんは小学校の途中、通学していた京都師範学校付属国民学校(現・京都教育大学付属小学校)内に設置されていた「特別科学学級」に、試験を受けて編入しました。


ここは、次世代のノーベル賞受賞者を育てよう、というエリート養成を目的に作られたクラスで、戦時中にもかかわらず英語教育が行われていました。
同級生には湯川秀樹の息子や、史学家の貝塚茂樹の息子、長じて日本画家となった上村淳之などがいたそうです。


その時のことが、父・万作さんのエッセイに記されています。

(妻のことについて)
育児。確かに熱心ではある。
しかし、女性の通有性として偏執的な傾向が強く、困ることも多い。


勉強などではとかく子供をいじめすぎる。もつともこれはどこの母親も同じらしい。
去年の春、子供が潁才教育の試験を受けたときなどは心痛のあまり病人のようになつてしまつたのには驚いた。


どうも母親の愛情は父親の愛とは本質的に違うようだ。


食糧事情が窮迫してからは、ほかからどんなに説教しても自分が食わないで子供に食わせる。そして結局からだを壊してしまう。


理窟ではどうにもならない。


「我が妻の記」*2より


今でいうところの「お受験ママ」を彷彿とさせます。
後半からは、強い母性も感じられます。


中学校も、同様の学校へ。
しかし、十三さんが13歳のときに、父が闘病の末、亡くなりました。
その後、母と妹は郷里の松山へ行きますが、彼だけはひとり京都に残って、高校へ進学。


本人いわく「乳母」*3がいて、身の回りの世話をしてくれた時期もあったようです。


休学・留年の後に松山へ引越し、その後地元の高校へ編入しました。
卒業したのは20歳の頃。


また、万作さんが亡くなった時分に、脚本や寄稿などの書き物で細々と生計を立てていたらしく、家計はかなり逼迫していたようです。


妹のゆかりさんは、松山に移り住んですぐ、伯父の養子になっています。


ですから、ここで十三さんだけが松山へ行かず、京都に残ったのはいささか疑問が残ります。
あくまで推測ですが、母親の性格から「長男にはよい教育を受けさせたい」ために無理をした、というのは十分、考えられそうです。


ただ、思春期の十三さんは、父の死や一家離散で、心に複雑な傷を負ったことでしょう。
あるいは、単純に親の目を離れ、放蕩の日々を送っていたのかもしれません。


その「空白の時期」に親しくしていた、特別科学学級の友人、林尚久さんから浦谷さんが伺ったという話。

浦谷「で、その仲のよかった林さんと伊丹さんはいっしょに、いろんなところを『放浪してた』んだって。」


糸井「放浪ですか。」


浦谷「それも『伊丹さんのお母さんのすすめ』で、当時の『名のある人のところへ、いろいろと』‥‥とかって、
林さん本人が言ってる。」


糸井「いろいろ、よくわかりませんねぇ。」


浦谷「いろんなところへ『放浪』に行ってたのって、 何のために? 何かの修行してたのか?


これはもう、最後までわからなかったんだ。」


糸井「そうなんですか。」


浦谷「ともかく、松山の直前に1年ダブってる。
だから、松山の高校に転校したときは、同級生より、1歳年上だったわけです。





ほぼ日刊イトイ新聞 『天才学級のきざなやつ? 「13の顔」を持っていた、伊丹十三さんのこと。』


第4回「天才学級のきざななやつ。」より

母の紹介で、各地の名士に会いに行く、放浪の旅。
不思議な気がします。


ここからは、私の想像です。
母から期待され、それに応えて見事特別学級で学ぶこととなり、将来を渇望されていたであろう十三さん。
しかし、父の死により、その歯車は微妙に狂いました。


母の期待と、息子の行動は食い違っていきます。


結局、別居生活は、当初の道からのドロップアウトのきっかけになったのかもしれません。
しかし、母の「何とか息子をよい方向へ進めてあげたい」という思いはとどまりませんでした。


傍で生活できない代わりに、
せめて、よい人脈を紹介して、人生勉強の道筋を照らしてあげよう、と懸命にはたらきかけたのではないでしょうか。


休学や留年の負い目からなのか、はたまた自分でも必要だと思ったためのか、その両方か。
いずれにしても、十三さんは「母の指示に従って」放浪を始めます。


ここに、何ともいえない、濃厚な母の信念と愛を感じます。
強すぎる母性は、精神分析ではよくカーテンに例えられますが、子どもを柔らかく包む込む一方で、ゆるやかに首を絞め、逃げ場を失わせるものでもあります。


十三さんはのちに、「mon oncle」という雑誌を出されるほど精神分析に傾倒されていますが、
それには、この育ちが関わっているのではないか、と浦谷さんは指摘されていました。


教養や文化に対する強い尊敬や憧れは、ある意味で母からの贈り物であり、束縛でもあった、と言えそうです。
十三さんの、それらへ対する感情のなかには、喜びと気負いが同居しているように感じます。


そして、「気負い」が、いくつかの挫折の引き金にもなります。


役者になってから、得意の英語を生かして十三さんは渡欧します。
他の日本人俳優には出来ない役柄、少なからず自負もあったでしょう。


しかし、「ヨーロッパ退屈日記」では、御自身の英語力のいたらなさについて、繰り返し自嘲気味に書かれています。

うちの斜向かいはプラザ・ホテルで、二十四階建てである。その屋上プールで、あるイギリスの俳優に水泳を教え始めた。


今日は浮身を練習しよう。
いいかね、まず水の中で仰向けになる。
体の力を抜いて楽な気持ちよ。ただ背中だけはうんとそらす。それから……


(中略)


という具合にやろう、と思ったんだけど、これがむつかしい。
なんだこんな簡単なことと思う人は、これを読むのと同じスピードで訳してみい。
しかもイギリス人やアメリカ人がごろごろしている前で大声でこれをやるんだからねえ。


(中略)


英語を習い始めて十何年も経つのにこんな簡単なことがいえないのかね。
英語に対する自身がいっぺんに凋んでしまうのはこういう時なのです。


ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

和文英訳」 P.85〜87 より

それから、初監督作品である、お葬式。

お葬式<Blu-ray>

お葬式<Blu-ray>


この中には、小津安二郎やフランシス・トリュフォーなどからの引用カットがちりばめられ、ある種のアート作品としても楽しめる構造となっています。


しかし、引用の手法については、当時少なからず批判的な言説もあったようです。
そのためなのかどうかか分かりませんが、伊丹さんはその後、エンターテインメントに徹するという姿勢に切り替えられました。


これは奇しくも、第2回伊丹十三賞を授与されたタモリさんの、『中洲産業大学』の話に通じるものがあります。

タモリ 『「中洲産業大学」というのは本当にくだらないだしものに見えるんです。


……まぁ、本人の私はくだらないとは思っていないんですけれども
本当は将来はそういうふうにして、ジャンルなくいろんな人に参加してもらうはずだったんです。


学者ももちろん、一般の人も、学生も集まってそれまで解明しなかったこととかを考えるという……


他異分野を入れることによって科学的なものとは違うものが証明されたりなんかするという、
そういうことをやりたいなと、思って、一回やったことがあるんですよ。

本当に小規模に。大学の予備校で夏期講座というのもずいぶん昔にやったことがあるんですけれども。


糸井 「学際的な、よく言えば。」

タモリ「えぇ。さほどの手応えも反響もなく。」

中沢 (笑)


糸井「あぁ、そうですか……。」


ほぼ日刊イトイ新聞はじめての中沢新一。』


第44回「数学は生命の燃焼」より

吉本隆明さんがタモリさんを評して、「もっと高級なことができる、という自負がありながらも、確固として自分の領域を守っている稀有な人」とおっしゃっていましたが*4
それは、このときの苦い経験があったからなのかもしれません。


数年前、「いいとも」のなかで、タモリさんが
「この頃は、『大学の先生にならないか』という誘いもいくつかあるが、僕はすべて断っている」
という話をされていました。


彼も、ご自身の在り方を、貫いておられます。


話が横道にそれましたが、


命名における混乱と、
父の特別な才覚と、床に伏せっている姿、
母の、たぐい稀なる教育への信念と、からめとるような愛情。


これらが、伊丹さんを育むものとなったのではないでしょうか。


どのような形で、「高貴さ」へと結実したのか、は次の話に。

*1:テレビマンユニオンの創立メンバー。伊丹さんとは、テレビ「遠くへ行きたい」、ドキュメンタリー「天皇の世紀」「古代への旅」などの撮影で、一緒に仕事をされたそうです。

*2:この本がどうしても入手できず、本意ではないですが青空文庫で拝読しました。

*3:後に黒澤明のもとでスクリプターをしていた野上照代さん。父・万作と文通をしていた縁から、十三さんの世話を引き受けたらしいです。

*4:拙文「坂道に佇むタモリhttp://d.hatena.ne.jp/CultureNight/20120727/1343396759