静寂を待ちながら

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なにものでもない人生(高貴さについて・3)

第1回では、伊丹さんの審美眼、第2回では、それを育んだであろう、彼の生い立ちに触れました。


糸井さんは、彼の人生に思いを巡らせ、こんな言葉を紡いでいます。

糸井「はー‥‥。とにかく、伊丹さんにはなんで、そんなに才能があったんだろうかと思うと、
なんか『悲しさ』さえ感じるんですよ。」


浦谷「悲しさ。」


糸井「いや、あの、すごいなって思うのはもちろんだけど、
伊丹さんの才能にあらためて触れてみたら、なんか悲しいというか‥‥。」


浦谷「ああ‥‥。」


糸井「いや、あの、生意気なんですけどね、そんな悲しいだなんて、人のこと言うのは。」


浦谷「いや、なんとなくわかるよ。」


糸井「つまり、どう表現したらいいのか‥‥


『先生はどうして何でもわかってらっしゃるんですか』と訊かれた孔子が、
『それは、わたしの生まれが悪いからだ』って言ったっていうじゃない。


浦谷「そうなんだ。」


糸井「なんか、すごいことをやってきた人にはそういう悲しみを、感じるというか‥‥。」



ほぼ日刊イトイ新聞 『天才学級のきざなやつ? 「13の顔」を持っていた、伊丹十三さんのこと。』


第4回「天才学級のきざななやつ。」より

糸井さんが悲しみを感じたものは、きっと、内田樹さんがブログで触れておられた「高貴さ」に通じるものがあるように思います。


そもそも、「高貴さ」とは何か、ということを私なりにですがじっくりと思いを巡らせました。


困ったときは自然から学ぶのが私のやり方です。


例えば、植物は、葉や茎、花を支えるために、その倍以上に及ぶ地下茎や根を持っています。


また、一般的な精製塩と、天然塩の違いは、その成分にあると言います。
精製塩は、ほとんどがナトリウムで出来ているのに対し、天然塩には余分な成分が多く含まれています。


この「一見、余分だと思えるもの」が、実は風味を引き立てるのです。



まず、伊丹さんの「葉や茎、花」。


映画やエッセイ、役者としての演技、あるいはドキュメンタリー作品の中には、
とにかく「本物であれ」「本質を見抜け」という強烈なメッセージが、ウィットと共に練り込まれています。


表層をかき回してごまかすことを極度に嫌い、何事もストイックに追求していた伊丹さん。
しょうもない思惑や、弱さ、甘えを徹底的に弾圧しています。


それから、「地下茎、根」「風味を引き立てているもの」。


生まれた時から名前が二つあったこと。
病床の父、
母からの熱心な教育と濃厚な愛情、
戦時中に英語教育を施され、エリートとして育成されながらも、
海外では、日本人であることを痛烈に感じさせられた体験。


なぞっていくと、どうしても胸が詰まります。
自分がなにものか、ということを常に厳しく問われるような人生です。


このような環境で己を律していくため、彼は「場の中心に居ながら、孤独に生きる」という、
実に複雑で、豊かな在り方を選択しました。
そして、何をしていてもどこか俯瞰で見るという、稀有な客観性にまで昇華させたのです。
逆にいうと「ホーム」のない人だったのかもしれません。


ヨーロッパで垣間見た、伝統に根ざした質の高い文化も、
ある種、根無し草のような精神を持った伊丹さんだからこそ、その本質を的確にとらえ、受容できたのではないでしょうか。



そして、糸井さんも指摘されていますが、
高い教育を施されながらも、逼迫した生活を送った経験があったせいか、
普通なら「高級な趣味」に終わりそうなもののどれもが、手に職を得るレベルにまで到達しています。


まるで、水面下で必死に足を動かす白鳥のようです。


悲しみをたたえた才気は、
客観性を経由した不断の努力によって作られていました。
彼の高貴な精神は、ここから始まっています。


高貴さとは、
「影との向き合い方」にあるのだと思います。
ここで「影」というのは、植物なら根っこ、塩でいうところの「にがり」にあたるような部分です。



どんな人生も、影に溢れています。
他人には語ることはなかったけれども、
いつも気にかけているちょっとした傷のようなもの。


これを見続けるのはつらいし、だいたい日常生活の中では忘れがちなものです。


伊丹さんは、確かに多くを話さなかったかもしれません。
でも、影をしっかと抱きかかえ、いつもどこかで自覚的であったように感じます。


光も影も穴があくまで見つめ、全てを味わいつくす。
それはまさに、芸術家の在り方です。


ここまで書いてきて、気がつきました。


これって、まるでビートたけしさんの生き方に、似ているのはないでしょうか。


たけしくん、ハイ! (新潮文庫)

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教育熱心な母親との対峙、学問からのドロップアウト、芸への道、そして映画監督に結実していく様など、重なる部分はとても多いように思います。


ただ、伊丹さんとたけしさんの違いは、
「ホーム」があったか、なかったか、ということに尽きるでしょう。


芸人というホームがあったうえで、映画へ踏み出したたけしさん。
「なにものでもないこと」を押し広げて生き、紆余曲折があって、ようやく「映画」という安住の地を見つけた伊丹さん。


それぞれに偉大で、表現に命を賭した人生です。


…………


最後は収集がつかなくなってしまいましたが、これで伊丹十三さんの高貴さを探す旅を終えたいと思います。


拙い文章におつき合いいただいてありがとうございました。