伊丹十三と今田耕治の、透徹したまなざし(高貴さについて・1)
1カ月ほど前、思想家・内田樹さんのブログにて「伊丹十三と戦後精神」という記事が発表され、大変話題になりました。
伊丹十三と「戦後精神」
第三回伊丹十三賞の受賞記念講演を去年松山で行った…
これは、「第3回伊丹十三賞」受賞の時に行われた記念講演の内容を、ご自身によって補遺・編纂されたものです。
授賞理由
世の中の事象から、人がどう生きるかまで、ひらかれた思考とやわらかい言葉で日々発言し続ける、現代的で新しいスタイルの言論にたいして。
受賞記念講演会 採録はこちら→(伊丹十三記念館 HP)
http://itami-kinenkan.jp/award03.html
伊丹十三賞について。
【伊丹十三賞とは】
あらゆる文化活動に興味を持ちつづけ、新しい才能にも敏感であった伊丹十三が、「これはネ、たいしたもんだと唸りましたね」と呟きながら膝を叩いたであろう人と作品に「伊丹十三賞」は出会いたいと願っています。
ちなみに第1回の受賞者は糸井重里さんです。
「ほぼ日刊イトイ新聞」では、これをきっかけに、伊丹十三さんにまつわる膨大なコンテンツを発表しました。
ほぼ日の「伊丹十三特集」
第2回の受賞者は、
「テレビというメディアに「タモリ」としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」
と評された、タモリさん。
今年は第4回目で、森本千恵さんへ贈呈されています。
そして、昨年、伊丹賞を受賞された、内田さんのとある文章に、私は強く心が動かされました。
僕は、大江健三郎の小説を介して彼の名前を知ったときから、実際に彼の書いたものを読んだ20代のときからずっと、伊丹十三に惹かれてきました。
(中略)
そのたたずまいそのものの中に非常に純粋なものがある。高貴なものがある。そういう気がします。
たぶん今の日本人が一番評価できないのは、人間の高貴さだと思います。「ノーブルである」という形容詞を僕たちはもうほとんど使いません。
現代日本人が人を誉めるときに絶対に使わないような形容詞を持つ人物を、われわれはどうやって形容したらいいのか。
先日の拙文「坂道に佇むタモリ」や、「設楽統が見つけた居場所」でも書かせていただきましたが、
芸人さんでも品のある人というのは、独自の美意識やある種の哲学のようなものを、胸の内に隠し持っているように思います。
伊丹さんが大切にしていて、私たち現代人が忘れてしまった「高貴さ」とは、一体、どんなものなのだろうか。
その輪郭を少しでも捉えてみたいと思い、伊丹十三さんの経歴や仕事について、拙いですが、じっくり調べ、考えてみました。
…………………
私にとって伊丹さんとは、「お葬式」「マルサの女」などで名高い、有名な映画監督というイメージです。
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乾いた観察眼や、素朴であけすけな倫理観が、彼の映画を貫くものだと思います。
しかし、それだけではありません。
彼は「13の顔を持つ男」という異名を持つ人物でした。
13の顔を持つ男ー伊丹十三の肖像
伊丹さんは、
「日本一の明朝体を書く」商業デザイナー、
俳優、エッセイスト、
「遠くへ行きたい」を創設したテレビマン、
ワイドショー「アフタヌーンショー」「3時のあなた」の司会に代表されるタレント業、
CM作家、
雑誌「mon oncle」(モノンクル)での精神分析啓蒙家、
などなど、実に多岐に渡り活躍していました。
そのひとつである「エッセイスト」として、非凡な才気を発揮しているのが、
内田さんも紹介していた「ヨーロッパ退屈日記」です。
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まだ、海外旅行が一般的でなかった1960年代に、
伊丹さんは役者として、2本の外国映画に出演されました。
その撮影の折に過ごしたヨーロッパでの出来事、
あるいは見聞きした文化などについて、綴られています。
有名なのは、スパゲッティといえば「喫茶店のナポリタン」しか知られていなかった時代に
「本式のパスタとは、『アル・デンテ』という固さに茹で上げるものである」と、語られている部分でしょう。
翻訳文体のような緻密な構成と、落語や講談のような軽妙さをあわせ持った文体が特徴で、
彼の知性とサービス精神が、行間からにじみ出ています。
当時、庶民にほとんど馴染みのなかったヨーロッパ文化のあれこれを説いているせいか、
気取った言葉がちょっと鼻につくね、などとおっしゃる方もおられるようですが、
今読んでも全く色褪せることのない、彼一流の深い洞察と示唆に満ちた文章だと感じました。
この中で、繰り返し述べられているのは、
ヨーロッパ人の、文化に対する敬意への賞賛と、「貧乏臭さ」への、強い嫌悪です。
例えば、フランスの三ツ星レストランで、飲み残した高いワインを持ち帰った日本人に怒った話。
しかし、格式の高いレストランでは、いいお酒というものは、必ず幾分か飲み残しておくのが不文律というものである。
そうしたほうがイナセである、というのではない。
レストランには酒番というのがおりますね。たいがいは鼻の真赤な老人です。
(中略)
この、酒番の見習いというのが、たいがいまだうら若い少年なのですね。
そうして、酒番を志すからには、ありとあらゆる酒をきき分けて、これに精通しなければならんでしょう。
ところが、酒番の教育のために何千フランの葡萄酒をかたっぱしから開けてゆくわけには、これはゆきかねるではないか。
(中略)
将来、優れた酒番が絶滅したら窮するのは自分たちだ、という、この辺りのフランス人の論理というものは、
まことに颯爽としていて間然するところがないではありませんか。
(「ヨーロッパ退屈日記」P.219-220 より)
飲み残したひとくちのワインは、腕利きの酒番を育てる。
伝統を次世代へ継承することが、自分たちの未来の楽しみへつながる、ということを肌身で感じてきたヨーロッパ人の、
食文化に対する姿勢への敬意が、浅学な人たちへ対する憤りにつながったのでしょう。
もうひとつ、内田さんも取り上げておられた節から。
それから誰か、プロデューサーのマイク・ヴァシンスキー*1が、ロールス・ロイスを注文した時、扉の外につける紋章はいかがいたしましょうか、と聞かれた話をして、
―― 君も、ロールスを注文しに行く時には、あらかじめ答えを用意していった方がいいよ ――
一座はしばらく沈黙におちいった。
(「ヨーロッパ退屈日記」P.60 より)
こちらは、伝統を理解せず、成金的に高級車を買いにいったアメリカ人の行動を皮肉っています。
また、「一生懸命に上品ぶろうとしているミミッチイ感じ」「貧乏そのものでなく『貧ゆえの』という感じ」について、「ミドルクラス」と揶揄し、さまざまな例を挙げて批判しています。
ここで言われている「ミドルクラス」とは、ヨーロッパ伝統の階級ではなく、無知で粗野な人々に対する総称です。
日本でも、いかにも金回りがよいという感じで、どういうわけかピンクの洋間なんか建て増ししているのがあるが、つまりあれなのだ。
いや、これは例が良くないが、たとえば「おビール」という感じなのだ。
なにしろてんで間違っているのです。
(「ヨーロッパ退屈日記」P.207 より)
他にも、安車に乗っていながらネクタイピンがベンツのマークだったり、ダンヒルのライターにネームを入れたりしている*2人たちなどの、「ミドルクラス」な無粋さに辟易している様子がうかがえます。
優れたものに対する「怖れ」を持たない人、こういう人は何をやらせても駄目なのだ、とわたくしは思う。
(「ヨーロッパ退屈日記」P.271 より)
文化や伝統には、必ず背景があります。
それらは、先人への敬意や次世代への思いやりから生まれたものです。
あるいは、素晴らしいバトンを受け取り、次へ回そうとする自分たちへの誇りも含まれているのかもしれません。
それを安直にごまかすことは、高貴ではない。
本質を見よ、と伊丹さんは真摯に語っておられます。
これを見て、ふと思い出したのが、2年前の今田耕司さんのインタビューです。
今田 「昔の人達のほうが芸が粗いのかもしれないけど、
(中略)
今の子達はレベル自体は高いんですけど、どっかで観たことをさらに突き詰めている感じかな。」
―― オリジナリティを見出しにくい時代?
今田「 うーん……。例えば「あるあるネタ」や「ひと言オチ」とか、その根本を辿ると、みんなが同じ“参考書”で勉強していたりするんです。
そして、一度ブレイクしたネタやキャラクターを掴むと、そこを変えずに中身だけを変化させて露出する。そのネタで1年間ぐらい引っ張っていく。
すると、そのキャラクターによってネタは視聴者に十分浸透します。
そこで、新しい芸人が出てくる。
でも、“教科書”は同じだから、別の芸人による新ネタなのに、どこかで観たような気がしてしまう。
それを避けようという動きもあるんで、どんどんネタが細分化してきたように感じます。
2010年6月4日『今田耕司が現在のお笑い界を分析「今の若手芸人は“テレビコント世代”」』より
http://www.oricon.co.jp/news/movie/76690/full/
過去の芸人が生み出した芸の背景に、深く思いを巡らせることなく、繰り返し焼き直されていく笑いを見て、
今田さんは柔らかい口調ながらも、はっきりと警鐘を鳴らしていました。
誇りや高貴さというのは、一見で分かるものではないかもしれません。
しかし、それらが失われたときには、思っている以上にたくさんのものが崩壊していくのではないでしょうか。
では、伊丹さんは、このような「高貴さ」をいったいどこで育んできたのか。
すっかり長くなりましたので、続きは次回に。