静寂を待ちながら

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又吉直樹とボイン(「火花」の美を支えるもの)

こんにちは。扇情的なタイトルですみません。わざとです。

5月23日の『又吉直樹「火花」ブックトークイベント 於 くすみ書房2F「BookBird」』*1から早3か月。
その間に三島賞次点、「アメトーーク≪読書芸人≫」でお勧めした本がバカ売れ(中村文則「教団X」その他の増刷)、芥川賞受賞、TBS「情熱大陸」出演、火花」大増刷、選評掲載の「文藝春秋」が100万部超え…、などなど、いろんなことがありました。出版界は又吉さんを中心ににわかに活気づいています。そういえば、株価を動かしたというニュースもありましたね。もはや社会現象です。
しかし、ファンにとっては尋常ならざる時間でもありました。あまりのことに、わたくし、一時は体調を崩しました。その節、ご迷惑をおかけした皆様、本当に申し訳ありませんでした(土下座)。

余談ですが、基本的に、今の出版業界の問題は構造不況にあるので、このブームがひと段落したらまた「売れない」の合唱が始まるのは目に見えています。そこんとこを省いて今回のブームだけ語ってもしょうがないだろ、と思う。
ただ、文学は永遠に不滅なので、形を変えて生き延びるはず。必ず。

文学とは何か。小説が好きで、エンタメより純文学と呼ばれるもの、また古典を敬愛する私は、よく考えます。
表現される場所の問題ではなく、一番は「作家性」。作り手の信念や人生が刻み込まれているかどうか。そして、その媒体にふさわしい身体性が入っているかどうか。この2点が重要だと考えます。
何をさておいても、「身を削って」は基本。時事や流行は後からついてくるものです。吉本隆明さんはそれぞれを「自己表出」「指示表出」と言い、芸術は前者のほうが大事だと語っていました。
そして、文章なら韻律、音楽ならフレーズや和声、絵画では色彩、またその全てにおける構成、にその人の生理や身体性が入っていることが肝要。ここが、美を生むんですよね(映像についても触れたかったのですが、あまりに無知なのでやめておきます)。
小説、漫画、アニメ、映画、絵、写真、彫刻、演劇、舞踏、などなど、媒体は関係ない。指示表出によらず、自己表出に命かけてるのが芸術で、私はそういうものに魅力を感じるのです。

さて、話を戻します。
トークイベントでお話したことに後日談を加えながら、解説もどきを書いてみることにしました。
今日はこちらです。(イベントで使用したレジュメより抜粋*2

文学としての価値
*文壇の評価「最高の処女作である」
*リズム・韻律の試み(情景描写)/自由律俳句のエッセンス(大喜利・一発ギャグ)

参考にしたのは芥川賞の選評、親交ある方々からの寄稿など。(2015.8.16現在)

文學界 2015年 09 月号 [雑誌]

文學界 2015年 09 月号 [雑誌]

また、三島賞の論考やその他の解説を参照し、「火花」が評価された点を大きく二つあげます。

・己が惜しみなく投入されている。
・視点の作家性

私小説でなくても、あらゆる作品にはその人の「我」、もっといえば生き様が入っていなくては、受け手に響かない。山田詠美さんは褒賞会見で「人生コストのかかった作品だ」という旨の発言をされていたが、「火花」はまさに「芸歴16年目の表現」*3であり、35年の彼の人生が凝縮されている。先達の作家らは、それを好意的に受け止めたようだ。

又吉さん独特の視点に関して。
お笑い界のキリスト、文学界の救世主にふさわしい「受容力」が根底を貫いている。自虐や悲哀をはらみ、生きる辛さを描いているが、暗くない。希望よりも少し手前の「大変だけど、まあなんとかやってこう」レベルの明るさがある。実に誠実な量の光だ。彼には地獄の可笑しみを余すことなく描く覚悟がある。
「文学に毒され過ぎていない、純粋な部分が読んでいてすがすがしい」という評も聞いた。これは人柄というよりは、そうありたい、と願う彼の姿勢だろう。思想に近いかもしれない。あるいは、文学への強い愛が表れているとも言える。

さてさて、ここからは私の好き勝手です。いよいよ、ボインちゃんについて。
ええと、ボインとは、結局「母音」のことです。…ほんとすいません。怒らないでね。

「火花」に至るまで、又吉さんは短編、掌篇、脚本、など様々な形で作品を作っている。もちろん日々のお笑いネタも同じ土俵で。
ただ、今回は特に、詩歌、主に俳句(定型・自由律)の影響を感じた。会話より、地の文のリズムが美しかった。音は意味に先立つ、と改めて感じるほど。

冒頭を例に挙げる。

P.3
地を震わす和太鼓の律動に、
高く鋭い笛の音が重なり響いていた。
海湾に面した沿道は白昼の激しい日差しの名残りを夜気で溶かし、
衣姿の男女や家族連れの草履に踏まれながら賑わっている。
沿道の脇にある小さな空間に、
返しにされた黄色いビールケースがいくつか並べられ、
の上にベニヤ板を数枚重ねただけの簡易な舞台の上で、
たちは花火大会の会場を目指し歩いて行く人達に向けて漫才を披露していた。

(改行、色付けはブログ筆者)

話は飛ぶが、声楽で、母音の発声練習をするときは、普通この順番でやる。

A→E→I→O→U

まずがばっと空けて、徐々に口をすぼめていく。声を出すのは出口が狭いほうが難しい。ゆえに、楽なところから少しずつレベルを上げるという方策です。未経験者はぜひやってみてください。

それを参照に、句点ごとの母音を抜き出すとこうなります。

A A A U E U O O

頭韻は、開かれた「A」に始まり、すぼまる「U」との大きな揺らぎを繰り返し、最後は「O」。続きをはらんだ消極性の音で落ち着く。
意味を追うと、音楽と遠景からはじまり、ぐっとズームインして視点を足元へと大きく転換させ、物語の軸を担う「漫才」の場面へと静かにつながっていくところです。海と空、花火への期待と簡素な舞台。どんぴしゃです。
もうおわかりでしょうが、これは、意味と韻律が見事に合致し、芸術の高みに到達した見事な冒頭なのです。
どこまで意図されたのかは分りませんが、これが又吉さんの力です。膨大なアーカイブを感じさせる、実に美しい文章。

気がついたとき、「おお…!」と震えましたよ。どこまで天才なんじゃ。

この文に惚れた方に、お勧めの一冊はこちら。本当に素晴らしいのでぜひ。

あと、ブレンディボトルコーヒーのエッセイも素敵ですよ(全9作)。スーパーやなんかでぜひ手に取って見てくださいね。

こんな感じで、秋は暇を見つけながら、ちょいちょい「火花」のことを書く予定です。異論反論はコメントにてどうぞ。ご静聴ありがとうございました。

*1:詳細はこちら

*2:全部読みたい方はこちらからご覧ください

*3:文學界2015年9月号、中村文則さんの特別エッセイのタイトル