静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

空に咲く花火、野に散る火花(又吉直樹「火花」)

こんにちわ。年明け早々、公私ともにハードな日々を送っておりました。現実に立ち向かう力がうまく出せなくて、へなへなしていたら、A先輩(略称:ジェントルさん)が「つらいね、でもあんたはええ子や、今は無理せず休みなよ」的なことを言ってくれて、わたくし年甲斐もなく泣いてしまいました。ありがとうジェントルさん。その節は本当に救われました。…昨年末に「人を助けられる人間になりたい」と宣言した舌の根も乾かぬうちに、むしろ周りに救ってもらうという事案が発生し、若干情けないものがあります。しかしまあ、助け助けられて生きるのさ!愛し愛されて生きるのさ!(byオザケン)って感じで一歩ずつ前に進んでいきたいと思います。

…………
さてさて、こちら、すごいニュースになりましたよね。

文學界」初の増刷へ 又吉さんの小説掲載で
NHKニュースWEB より)


80年以上の歴史を持つ文芸雑誌「文學界」が、お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹さんの小説の掲載で異例の売り上げを記録し、創刊以来初めて増刷されることになりました。

増刷されるのは、文藝春秋が発行する月刊の文芸誌「文學界」の2月号です。
お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹さんの小説「火花」を掲載したことが話題となり、発売初日の7日、すでに一部の書店では在庫の70%以上が売れたところもあったということです。

文芸誌に230枚書き下ろし、って時点でもうすごい。ひっくり返りながら「これは売り切れ必至」と思ってすぐさま近くの書店へ予約の電話をかけましたよ。そうしたら予想をはるかに超えた数字が!文芸春秋さんもほくほくでしょうね。
で、さっそく手に入れて読んでみました。ちなみに今回の表紙装画は元ceroの柳智之さんによる「小林秀雄」。個人的には嬉しい偶然です。

文學界 2015年 2月号 (文学界)

文學界 2015年 2月号 (文学界)

又吉さんはなんと巻頭!こんなに大きな扱いで作品をおろしてくれるだなんでファンとしてはもう嬉しくてたまりませんよ。ありがとう文藝春秋

文芸誌処女作のタイトルは「火花」。
あるふたりの芸人の生き様を描いた作品です。徳永という売れないお笑い芸人が、少々エキセントリックで、でも笑いに真摯な神谷という先輩と出逢い、共に「笑い」を模索して行くお話。徳永のコンビ名「スパークス」が題名の由来でしょうが、きっとファンならピンとくる。又吉さんは「ピース」というコンビを組む前、学生時代の同級生と「線香花火」というコンビで活動していました。おそらくそこからも取られているのであろう。ストーリーも、線香花火のことを思わせるエピソードや展開が結構、いや多分にある。というより、これは「線香花火」に捧げるお話、ととらえることも可能なのではないだろうか。ファンの勝手な憶測ですけどね。その他にも、彼の側にいた先輩・後輩の話がベースだろうな…、というものも随所に盛り込まれていた。たとえば徳永と神谷のメールのやり取りなんか、ジューシーズ児玉さんと又吉さんとのそれにちょっと似てるなあと思いました。もちろん現在の活動の根であるピースで経験した事柄も、いくつか含まれているように感じます。
「笑い」について、あくまで自分の感覚と信念だけを頼りにつきすすみ、周囲との軋轢をおそれない神谷、それに憧れつつも少しずつ軸を変化させていく徳永。齟齬はやがてある事件に到達します。

徳永と神谷のやりとりのひとつ、「自分が本当に面白いと感じるものを追求したい気持ちと、各媒体を通じて受け手へ届ける時の配慮」に関しては、自分の過去エントリに又吉さんの生の声、などなどがあったので引用してみます。

古井「テレビの向こうに広がっている空間を思うことはありますか。
又吉「はい、それは思います。でも、そう思う作業が結構難しくて。」
古井「そうでしょう。目の前に広がっている空間を別の空間へと変換しようと思っても、なかなか感覚的に修正しきれないんじゃないですか。その分だけ抽象的な世界になっているわけだ」
又吉「お客さんを入れる収録の時はまだ自分の調子が分かるんですけど、ただカメラを前に喋っていいるだけだと……。」
古井「ああ、これは苦しい。芸人がお客さんのいないところで芸をするのは、多分歴史が始まって以来、今が初めてなんじゃないでしょうか。」

(中略)
又吉「目の前のお客さんを楽しませるのが昔の芸人だとしたら、今の僕らの行為は、例えばテレビを通していろんな世代のさまざまな考え方をもつ人たちに見られてるわけで。
そうなると、やっぱり想定外の人も見ていますから。
届かなかったり、逆にすべての人に伝わることが自分のやるべきことなのかと感じることもあったりして。」

新潮 2012年 01月号 [雑誌]

新潮 2012年 01月号 [雑誌]

「人を笑わせる」という行為で、ある程度共通のものはあると思う、と後半で述べつつも、媒体の違いが、彼にある種の戸惑いや迷いを生じさせている。

2009年9月29日配信の「月曜JUNK バナナマンのバナナムーンpodcast」では、キングオブコントで優勝したばかりの東京03がゲストに呼ばれた。
キャラクターの薄い豊本さんを、テレビ出演でいじる折にどうしようかと案を出し合うなかで、語られたこと。

(舞台に出るときの豊本さんのいじり方について)
飯塚「一応、ミステリアスな感じにはなってきつつありますけど」
設楽「でも、それってね、ライブシーンではいいよ。
テレビは、より、大衆演芸だから。
(中略)
人間味の勝負だからね、こっからは。大事なのは。
そこが全然(分からない状態)でミステリアスだと、なんだこいつ、どうやっていじりゃいいんだってなっちゃうからね」

http://www.tbsradio.jp/banana/index.html
20090929.mp3

舞台に比べ、テレビはより分かりやすく、例えば面白い顔や人柄などの、多くの大衆から共感が得られるものが商品価値につながると、設楽さんは力説した。
舞台でのコント、そしてテレビのバラエティ番組の両方で活躍するバナナマンだからこそ、どちらの特性も分かるのだと思う。
……
受け手の領分」より

これ、答えは「テレビを頑張りつつコアなライブも手を抜かず続ける」っていう又吉さんの現在の活動に尽きるんですよね。規制のあるテレビで破天荒なことは出来ないけど、そこにずっといるためには自分の刃を磨き続けなくてはならない、っていう。いや、大衆芸能とエッジの利いた表現、どっちが上とか優劣とかない。ただ、己を突き詰めることだけが必要なんだと思う。この作品も、「笑い、すなわち己を突き詰めるには」という問いに、かなりの分量が割かれていました。
「お笑い」という表現を選ぶ人たちの切実さが、わたしはとても好きです。人を笑わせたい、というのは自分が笑いたいということと大体イコールだ。それは意識的にしろ無意識的にしろ、その人が「笑えない何か」を抱えているためだと思う。でも笑い飛ばしたい、という心の動き、その強さとやさしさにわたしはどうしようもなく惹きつけられる。
それはラスト付近の、徳永のコンビ「スパークス」の漫才の場面と、その後の、花火大会の会場で起こった出来事に象徴されていた。ここはぜひ皆様に読んで欲しい箇所です。

それから、文体がとにかくやさしい。「清濁・正誤なんか気にせんでええんや、全部おもろいんやで」っていう又吉さんの声が聞こえてくるようだ。全てを肯定しよう、という考えが行間ににじみ出ていた。彼の愛情深い人柄が、この作品を強く支えているように感じました。心洗われたー。

「火花」はお笑いファン、又吉さんファンのみならず、すべての表現者とそれを愛する人たちに読んで欲しい作品です。
又吉さん、どう考えても多忙な中、こんなに切実で誠実で、愛のあふれる作品をありがとうございました。これからも、テレビで、舞台で、そして言葉の世界で活躍する又吉さんを応援しています。
単行本にもなるらしいので、そのときはまた張り切って買いたいと思います。