多崎つくるくん・2 悪について
前回の続きです。
モチーフである音楽や小説からも想起される、
豊饒で多岐的な「喩」の話、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」。
どんな角度からも読み解けるストーリーには、繰り返し象徴としての「悪霊」が出てきます。
訳の分からない拒絶、死のイメージ、
挿入話である6本目の指を持つ「異形」の不可思議な話、
まるで呪いのような「暴力を忍ばせた暗い影*1」の幻覚と妄想に翻弄される、とある登場人物。
あと、帯に書かれていた文章「良いニュースと悪いニュースがある」のくだりもそうかもしれませんね。皮肉的な意味で。
つくるくんは少しずつ、巡礼の中で縺れた糸をほどいていきますが、解けなかった部分もある。
自分では手の下しようがない暗闇。
「悪霊」は常に恐怖を持って横たわっていましたが、一方で妙な魅力もありました。
甘い誘惑…、などとがさつに思っていたとき、よしもとばななさんの毎月更新の日記、通称「今月のオレ」をたまたま読みました。
そしてぐっさりと、それはもう見事にやられました。
ばななさんが講演会&握手会をした際に会ったファンの印象について。
今三十代の人たちは、表向きとてもいい人たちだし、礼儀正しく、優しい。
でも決定的に洗脳されている点はやはり「ひとりでいても完璧で穏やかで優しくあるように絶対それを目指さなくちゃいけない」というところだろう。
時代の風潮なのか、教育がそうだった時期なのか、わからない。
ただ、その優しさがなにかあって崩れなくてはいけないようなとき、自分を責めて真逆にふれてしまう可能性がある。そうしたらもうめちゃくちゃにもろいし、とりかえしのつかないことをしてしまう可能性もある。
彼らの秩序ある世界でしか通用しない優しさはもしもほんものの悪(存在します)が勢いよくやってきたら、たちうちできないタイプの優しさなんだと思う。
みなさん理屈ではわかっていて「悪ってありますよね、だから自分はこうありたい」と言うんだけれど、そういうものって理屈ではなく空気ごと違うから、ほんとうにたちうちできないと思う。
でも、理屈と正論でたちうちできるんだというふうに洗脳されてしまっているから、気の毒だ。
30代、って限定しているのはその場にたくさんいらした世代だからでしょう。
もうひとつのよく見えるパターンは、巨大なこわいものに触れるくらいなら、こわいからもう絶対自分の世界から出ません、平和でないものには接しません、という人たち。そういうふうに棲み分けがいっそう強固になっているから、自由な空間が足りずに息が詰まっているわけだ。
なにか人生の重みに関わる重大なピンチが訪れると彼ら彼女らは全員こぞって、いっそうストイックになったり、無理な完璧さを自分に課しはじめる。そうすればだれかが助けに来てくれるだろうというふうに。
でも助けは来ない。自分しか自分を助けられない。だからこそ、それじゃ体も心もまいってしまう。上記、下記ともに
よしもとばなな公式サイト 「人生のこつあれこれ 2013年3月」 より抜粋
思い当たる節があり過ぎます。
自分のおばかで愚かしい側面をむんずと掴まれ、目の前に突きつけられたように感じました。
突きつけられてよかったです…。
殺戮のチャンスを虎視眈々と狙う悪霊。
私などその尻尾もつかまえられていないのだろう。悔しいのでこれから頑張ります。何かを。
春樹さんは、この小説の中で具体的に、あるいは象徴的にそれを描いています。
「無知」を父に、「欲」を母に持つあの存在。
うまくいえないけれど、その存在について考え物語の波間をさすらうのは、生きる上ですごく大切なことのように思います。
たとえ目をつぶってもそれらを無きものには出来ない、だからこそ。
しかし暗いばかりではありません。救いのフレーズが!307ページに!
決して甘くはない文言ですが、本当の考え、言葉だと感じました。
100万部も売れた本の販促をするのはあれですけど、最も大切な色彩をあえて余白にした春樹さんに敬意を評し、ここにはその言葉を書かないでおきます。皆さん本屋でぜひ。
*1:同著P.365より