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祝福と呪い その2 境界上の戦いと創造

前回は、「心の自由」について考えるうち、花粉症の起源を通じて「戦う細胞」として生まれた免疫細胞は、その機能から逃れられないことについて話した。


1対1のやり合いから戦争に至るまで、「戦い」の基本は異なるもののぶつかり合いであるが、根っこは結局心情の発生と似ている。
何かしらの欲を得ようとするとき、そこには必ず敵がいる。
でも、それがクリエイティビティの元や生きるエネルギーに転化する可能性があるのも事実だ。


では、今度は「寝ていればよかったのに元気に戦って花粉症を引き起こす」、免疫細胞そのものについて考えてみる。


「本当のわたし」シリーズでも引用した↓


ヒトのからだ―生物史的考察

ヒトのからだ―生物史的考察


こちらによると、
免疫細胞の起源は「食細胞」という血液細胞だった。
彼らは腸管の周囲にいて、細菌などの外敵を食べて撃退する役割を果たしていた。やがて血管ができると栄養を運搬するものが分化、さらに血中から溢れた余分がリンパ管へと別れた。
そのリンパ管の中で、外敵を食細胞のようにひと飲みにするのではなく、一種の化学反応によって撃退するものーー、それが「免疫」だ。
だから免疫細胞とは、進化の過程上、比較的新しい時期に誕生した細胞といえる。


「食−排泄」*1は生き物の根幹だけれと、動物は「食」を外に依存している。自分で栄養を生みだすのではなく食べ物をどこかから調達し、口にする。それは同時に害あるものを取り込む可能性があるということだ。
それらから身を守るために、身体は、栄養を吸収するもののそばに外敵を撃退するものを置いた。


植物が「植わっているもの」なら、動物は「動くもの」だ。行動範囲の広さはそのまま自分を脅かすものとの出会いの多さにつながる。生き伸びるための争いは避けられない。


また、人間は外界と、他の生物にはみられない関わり方をしてきた。

ときどき、わたしは古代人に思いをはせる。
「農耕」を思いついた人はすごい。毎日森に木の実を獲りに行けば、種から芽が出て成長し、やがて実になることには気が付くだろう。
でも、そこで「種を持って帰ってきてここで育てればよいのでは」と考えて実際にやり、失敗を経ながらも最終的には「畑」を作った知性とパワーたるや。きっとひとりではない、幾人かが集まって考えて、農耕という文化を生みだしたのだ。その恩恵を今でも私たちが受けているだなんて。


これを吉本隆明さんに言わせると、こうなる。

人間の感覚器官が外界を受け入れる、例えば目が外界を受け入れる作用は受け入れと受け入れたものとを理解する二つの作用があるわけです。
感覚器官が受け入れるということは何かといいますと、関係づけだというのが僕の基本的な考え方です。


これは空間性であり、同時にその空間性は何かといったら、それは関係づけなんだというのが基本的な考え方です。


それから、受け入れたものを理解する、あるいは了承するということは何かというと、時間性、時間作用だというのが僕の基本的な考え方です。


それに即して何をとりあげればいいかというと、手と足をとりあげればいいじゃないかとかんがえてきました。


心とは何か―心的現象論入門

心とは何か―心的現象論入門


P.147 より 抜粋

前述の「農耕」に置き換えて考えれば、
時間性は、手を使ってあれこれ試行錯誤しながらこつこつと「畑」を作ること。
空間性は、足を使って歩き、山へ行って、これまでどんなふうに実がなっていたのか、それをどうすれば自分たちの村でも再現できるのか、共通項を見つけて「関係づけ」、考えることだ。


そして、こんな結論へと達する。


手の作用と足の作用が、身体が機能的にかんがえられるかぎりの時間性と空間性、あるいは関係性と了承性の範囲をはるかに超えてできるようになった時に、身体は人間と呼ばれるようになった、とかんがえてきました。


上著「心とは何か」P.149より 抜粋

人間が「農耕」という文化を生み出す際、そこには「自由な心」、想像力が欠かせなかった。
作業をする以前に、あれこれと関係づけて考え、そのイメージを手を動かして具現化する。
欲や心情、理性のすべてがあるからこそ、人間は身体機能の範囲を越えた行動が可能になるのだ。


そうやって人間は、長い歩みの中で、世界が自分たちにとって快適な場所になるように工夫を凝らしてきた。ちなみにマルクスは「自然に何かすると、その場は人間の一部になったといってよい、それが労働の価値だ」と論じている。
ただ、自然から何か得ようとすると、そこには必ず軋轢が生じる。
敵でも「戦い」でもストレスでも、名前は何でもいい。


異なる身体器官が触れ合う境界で、人は心と理性を作った。
それは世界を住みやすく変える元になったけれど、同時に新たな戦いも生み出した。


田村隆一さんの詩より。


秋になった。もし運命というものが私の肉体の裡にしか現れないならば、私の精神の裡に喚起されるものは何か。かかる時、私は詩を書かねばならぬ。詩を書くこと、つまり肉体にとって運命が確実な抵抗を意味するならば。


田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)

田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)


P. 54〜55 「坂に関する詩と詩論」 より 抜粋


境界線上で何かと何かが出会った時、
人間の身体は心と理性を誕生させ、古代人は農耕を編み出し、免疫細胞は新たな敵を発見した。
吉本さんは身体と世界の関係を解体し、田村さんは詩を書き、わたしはちまちまブログをやっている。


命、すなわち世界には、祝福と呪いの両方が必ずある。
どちらがよい、悪い、という単純な話ではない。両方あって初めて成立することの神秘と恐怖だけがあるのだ。


…………

若干とっちらかってはいますが、このシリーズはここまでです。ご清聴ありがとうございました。

*1:厳密にはここに「生殖」も加わる