ふしぎなせかい「abさんご」
- 作者: 黒田夏子
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2013/01/01
- メディア: ハードカバー
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ミーハー魂全開で読み始めたが、こんなに読中と読後で印象が違う小説は過去にない。
特徴は何といっても独特の文体だ。
横書きだし、固有名詞がほとんどない。平仮名を多用した比喩で表現することによってそれは極端に排除されている。
例えば、「盆灯籠」についてはこんな感じ。
死者が年に一ど帰ってくると言いつたえる三昼夜がめぐってくると,しるべにつるすしきたりのあかりいれが朝のまからとりだされて,ちょうどたましいくらいに半透明に、たましいくらいの涼しさをたゆたわせた.
(P.007 より抜粋)
あとは、「蚊帳」の表現が素敵だった。
へやの中のへやのようなやわらかい檻は,かゆみをもたらす小虫の飛来からねむりをまもるために,寝どこ二つがちょうどおさまる大きさで四すみをひもでつられた.ぶどうからくさの浮き彫られたきんいろの吊り輪がさすらいの踊り手の足飾りのように鳴るのは,まだ涼しいもう涼しいという朝夕のよろこびだった.
(P.034 より抜粋)
他にも、お手伝いさんのことを場面に応じて
「家事がかり」「外来者」「支払い人」「金銭配分人」
と呼び変え、名前は最後まで名乗られない。
小説というよりは詩のようで、なんて美しい表現なのだろうと思いながら読み進めた。
初めはかなり時間をかけないと内容が理解できなかったのだけれど、ある瞬間から急に普通の読書と同じスピードで読めるようになった。慣れたんですね。
すると、何となくその物語性の薄さが気になり始めたのだ。
もちろん意図的だとは思うけれど、これは有機的に作られたストーリを楽しむタイプの作品ではない。
徹底的にぼかされた固有名詞が、読者を長くその場に留まらせる。ストーリーは進まず、今どこにいるのかが曖昧になる。
あと、日本語でもっとも意志や内的表現を左右するのは感嘆詞、次いで助詞・助動詞とされている*1。
例えば、
「私は町に出かけます」
「私は町へ出かけます」
「私が町に出かけます」
「ええ、私は町にでかけます」
だと微妙に印象が変わる、みたいなことだ。
で、「abさんご」はこれらへのつなぎ部分をあえて平仮名にして前後をあいまいにし、内発的な表現もぼかしている。
それらは読み手を夢を見ているような心持にさせ、透明でぼんやりした不思議な世界へとトリップさせる。
小川洋子さんは選評で「たとえ語られる意味は平凡でも、言葉の連なり方や音の響きだけで小説は成り立ってしまうと、『abさんご』は証明している」
と記している。
まさにその通りで、わたしは読み終わった後、豊かな言語技術を目の当たりにした感動と、ストーリーの物足りなさからくる悲しみが混ざった複雑な気持ちになった。
ミカンの皮の汁を使って、あぶり出しをやったことありますか?
何が描いているのか分からないその紙をわくわくしながら炙ってみたら、
「ミカン」とか書いてあってずっこけてしまう、でもまあ楽しかったからいいけど、とひとりごちる、みたいな感じでした。
まあ、これで話が「どんでん返しにつぐ大どんでん返し!続きは第2部で!」みたいなものだったらくど過ぎるのかもしれない。
何でもない話、市井の物語を、異界の出来事のような語り口で綴ることに意義を見出したのだろうと思う*2。
それに、表現のベースはリズムに宿るのだ。
言語そのものの本質を的確に捉えて編むやり方が、何といっても本作の一番の読みどころ、魅力なのです。(2013年7月4日追記)
とにもかくにも、忘れられない、胸に残る作品でした。
74歳の新人作家こと黒田夏子さんにお祝いと感謝を捧げます。