複雑であいまいな私 その2 ドラマ、劇判音楽
前回は、同時に「ふたつの感情」を想起する、
伝統芸能である能の「面」と、現代のコントについてはなした。
他にも、笑いと恐怖、喜びと悲しみなど
異なる感情を一度に提示しているものはとても多い。
わたしは、そのいくつかを思い出した。
昨年放映されたドラマ、「それでも、生きていく」。
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少年犯罪を扱った、重く透明な作品だ。
第6話。
被害者家族のもとへ加害者少年Aを育てた夫婦が訪ねてくる場面。
大竹しのぶさんが演じる、娘を殺害された母親は、
もともとは近所の住人として交流のあった、時任三郎さん・風吹ジュンさん演じる加害者夫婦をもてなそうとする。
お茶菓子がないと憤り、そうめんをゆでて出すと言い張って支度する。
「あの人たちは客じゃないから」とたしなめる瑛太さん(被害者の兄)の言うことも聞かない。
気まずい食卓、必死の世間話。
途中、抑えられない感情が噴出してこぶしを振り上げる大竹さん。
すんでのところでこらえた後、デザートにスイカを切ってきます、と言って台所へひっこむ。
怒りと悲しみ、
「あっちはあっちで、いろいろあるんだろうなあ」*1というやるせない思い、
それから、客観的に見ると想起する、何ともいえないおかしみ。
一筋縄ではいかない感情の交錯がおりなす圧巻の名場面だ。
(画像は映画.comから)
冒頭、夫婦が営む小料理屋が火事になる。
どうすることも出来ずに、茫然と燃える店を見つめるふたり*3。
BGMには、ブルースのようなゆったりとしたギターの音色が。
それは何故なのか、と問われた西川監督の回答。
西川監督の熱烈なファンと思われる中年男性から
冒頭の火事のシーンでなぜロンチック*4なギター音楽を流したのかという質問対し
「ミスマッチな音楽はかつて見た悪夢のようにしたかったから。
逃げたいのに足が重たくて動かないという悪夢の中の身体感覚を出したかったから」
と見事な答えが返ってきて、観客をうならせた。
eonet.com 映画ニュース 2012年10月15日
「ロンドン映画祭で日本を代表する2大女性監督 西川美和&蜷川実花が初対面!『夢売るふたり』公式上映」より 抜粋
西川監督らしい、とても鋭くて明快な形容だ。
それはたとえば、心臓の上に手を置いて寝ると、夢の中で苦しむというようなこと。
身体の重さ・負担は確かにある、でも脳が把握できていないために不快だけが抽出された夢。
現実を受け止められない夫婦の感覚は、
動けない身体が見せつける夢のあの感じなのだ、と
音楽は、わたしたちに語りかけてくる。
激しい炎とスローテンポのメロディ。
相反する表現が、むしろその感情の深刻さを強調する。
複雑さゆえの抑制。
ここで、「抑制」を介し、能面のはなしに戻りたい。
稀代の能役者、観世寿夫さん(1925〜78)のことばから。
世間ではよく、女面を無表情の代表のようにいう。能面のように無表情だ、などと。
また、故野上豊一郎氏はかつて、「中間表情」ということをいわれた。
(中略)
しかし私は、女面は、表情がないとか中間の表情というよりは、表情というものを超えてしまっている顔なのだ ――、と思う。
坂部恵氏はその著『仮面の解釈学』で、仮面を意味するペルソナとは、人称なしの、つまり自分でも相手でも特定の他人でもない、
あるいは自分でも相手でもあるかもしれぬ「原人称」とでも名付けらるべきもの、との説を打ち出しておられる。
それは能の考え方とひじょうに共通するのではなかろうか。
「なにものでもない」ことを表す原人称。
その象徴のひとつとして面が存在する。
さらに観世寿夫さんは、
『能は人間を描く。だから感情を表現するものだ。
しかし、感情をあからさまには表出せず、抽象的な手法で観客の想像力を触発する。
その依りしろとなるのが、原人称であると同時に、呪術性も包括する「面」であり、能の本質である。』
と論じている*6。
抽象化され、生々しい人間という存在を超越した「面」は、
おさえこまれた沢山の感情を、
受け手の想像力を媒介にして表出する*7。
わたしたちは、長い歴史のなかで脈々とそのやり方を受け継いできた。
また、さらにさかのぼると、
古来から愛されてきた、抑制と複雑さで編まれた表現は、
実は、わたしたちの身体と環境によって育まれたものだった。
続きは次回に。