静寂を待ちながら

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複雑であいまいな私 その3 すべての根、洗練と混沌

前々回は、同時に「ふたつの感情」を想起する、
伝統芸能である能の「面」と、現代のコントについて、


前回は、ドラマや映画の劇判音楽でも見受けられる同様の表現と、
複雑さは抑制や抽象へと転化しやすく、
それゆえに生々しい人間という存在を超越した能面は、受け手の想像力を媒介にして多くの感情を表出する、ということについてはなした。


なぜ、このような表現をわたしたちは選び、受け入れ、
時代を問わず愛し続けてきたのだろうか。



わたしはそのヒントを、加藤周一さんの考えのなかに見つけた。

今此処の日常的世界は、感覚を通してあたえられる。
その世界を、それを超える何ものかを関連させることなしに一つの文化が成熟すれば、そこには感覚の無限の洗練が起るだろう。
たとえば色の感覚は鋭くなり(平安朝日本語の色名の豊富さ)、嗅覚は冴え(香合せ)、耳は複雑な倍音を聞き分けるようになる(能の鼓)。


そういう感覚の洗練の極致が、すべて一転に集中して成ったのが利休の茶の湯であろう。


加藤周一セレクション3 日本美術の心とかたち P.314「手のひらのなかの宇宙」より 抜粋

『それを超える何ものかを関連させることなしに』というのは、ここでは『茶の湯』が行われる茶室を指す。
閉じられた空間が、感覚の豊饒を促したというのだ。
これを俯瞰で捉えたとき、日本の「地理的条件」とおなじと言ってもまったく差し支えない。
極東の島国、
海を渡らないと他国とのコミュニケーションのとれないところ。


「はしっこの島」に住むわたしたちの身体は、五感をよりセンシティブな方向へと進化させた。

………

たとえば、
20世紀を代表する作曲家、ジョン・ケージの作品に「4分33秒」という曲がある*1
奏者は、楽器を持って舞台に上がるが、音を鳴らさない。
「偶然性の音楽」という、奏者の衣ずれや呼吸音、あるいは会場のざわめきなどを「音楽」に見たてるもので、
当時の西洋音楽界に驚きをもって迎えいれられた。


しかし、わたしたちは古来から虫の声や筧の音を慈しむこころを持っている。
あるいは俳句。松尾芭蕉の、
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
のように、静寂を前提とし、偶然にあらわれる自然音を楽しむのもごく身近な感覚だ。


このような「感覚の洗練」が、
一度にふたつ、またはそれ以上の感情を受け止め、表現しようと発想する基盤になったと推察できる。
また、そのためには「能面」のような抽象を介すると効果的、という考えに至ったのも、
閉鎖的空間のなかで育まれた、優れた五感が重要な役割を果たしているのだ。



ちなみにジョン・ケージは、鈴木大拙さんなどから東洋思想を学び影響を受けている*2


………


また、吉本隆明さんは、深い考察を経て具体的な着地点に到達している。


共同幻想論」の最終章は「起源論」。
古事記などを中心に、日本に国家ができた経緯を通してわたしたちの思想的起源にせまっている。


世界の他の神話とおなじく、
古事記」の冒頭は神々のはなしからはじまる。


神話とは基本的に「喩え」のストーリだ。
書かれている事象が直接起きたわけではなく、
民族や部族の共同幻想を、時間と空間の細かな縛りなしに組み立てたものと言える。


古事記」で最初に登場する神々は、呪術的にこの世を支配していた。
アマテラスなど、女性は宗教的な権威・あるいは象徴として存在し、
その兄弟であるスサノオ、すなわち男性が実務的な実験を握っていることが端的に描かれている。


これは何を意味するのかというと、
最も古い共同体の「規範」は、男女の姦淫にかかわるものということだ。
近親の姦淫を禁止することで、家族という概念が発生した。
新たな血族の広がりは共同体を大きくし、農耕と狩猟・漁業などの両立も可能になった。
それを押し広げたものがはじめの段階の国家で、当初は呪術性を含む母系的な体制だった。


ここで定められたいわゆる「家族法」と呼ばれる規範は、
古事記」では「国つ罪」と呼ばれる。
現在イメージされる〈国〉とは程遠い、ごくせまい地域内の支配を想起させる。


さらに古事記を読み進めていくと、神々はいつしか天皇の血筋へとつながっていく。
無論、実際の事柄ではなく、「託宣」を受けたとされる呪術性の高い為政者がいたということだ。


魏志倭人伝や隋書倭国伝によると、この頃「天つ罪」が定められたとされている。
端的に言うと農耕法で、田畑を荒らすとか、農耕を邪魔するような行為に対して、きびしい罰則が設けられていたらしい。


この〈アマ〉とは、吉本さんは当時の部族名ではないかと擬定している。
漁業や農耕、狩猟と農耕用具の製作などを行って生活をし、邪馬台国あるいはそれ以降の、官僚制度などが発達した高度な国家のもとで生活していた部族だ。


ただ、〈天つ罪〉というくらいだから古事記の最初に出てくる神々、
原初的で呪術性のある存在にも擬定可能だ、という矛盾が生じる。


また、〈アマ〉を「天からきたもの」の呼称としている民譚もたくさんある。
小さな集落に他民族が襲ってきたとき、彼らのルーツを知らない住民は、
それを〈天からの襲来〉と理解した。
大陸からの渡来勢力がその感覚で受け取られたことも、十分に考えられる。


さらに〈天つ罪〉〈国つ罪〉を並べると、
明らかに〈天つ罪〉が、神と結び付けられた上位概念と受け取れる。
家族法であり、原初的な〈国つ罪〉が先に出来ており、
神々のはなしとして挿話が描かれているにもかかわらずだ。


国家の成り立ちにおける共同幻想や「規範」の概念はすべからく混沌としており、おおきな混乱と矛盾がある。


その理由を吉本さんはこう語っている。

この矛盾は太古のプリミティブな〈国家〉の〈共同幻想〉の構成を理解するのに混乱と不明瞭さを与えている。


これは幾重にも重層化されて混血されたとみられるわが民族の起源の解明を困難にしている。



吉本隆明共同幻想論」 起源論 P.203 より抜粋

意味が二重化・三重化されている、わたしたちの共同幻想の起源。
ぴったりとかさなった同心円ではなく、一部だけが交わった鎖のようなかたち。


それは「あいまい」、もっと言えば「混沌」を是とする発想に転化する。
異世界にじぶんの色を混ぜることを恐れない。
日本人はこの民族がルーツだ、と明瞭にするのが不可能な、多くの混血によって成っている。
それこそ、「身体で」「感覚的に」分かっているのかもしれない。


くしくも、列島の地理的状況に目を凝らすと、下にはいくつかのプレートが存在する。
わたしたちは、衝突し、躍動する複数の境界上で暮らしているのだ。*3


加えて、「極東」「閉じられた空間」である島国という環境は感覚を大いに洗練させ、
能のような抑制と抽象が交錯した、複雑な表現の礎になった。


「複雑であいまいな私」は、このような流れを経て誕生した。
それは、中世の能から現代の映画、コント、ドラマに連綿と受け継がれる、
同じ皿の上に複数の感情をのせ、抽象によってそれを伝える、という
多層な表現へと昇華されたのだった。


…………
わたしは今、「抽象と抑制」のルーツと発展を誇りに感じつつ、
わたしたちの行く末に思いを巡らせている。

*1:正式なタイトルは「」。無題。

*2:「禅」について学んだそうです。

*3:また余談ですが、加藤さんは同著で、東京という都市の複雑さについても語っています。清潔で安全、美的でない看板や電線による景観の阻害、猛スピードでの変化、都市計画がほぼないつくり、しかしオアシスのような空間(能楽堂など)も点在する…という「東京」は近代日本史の象徴だ、と論じています。これは日本人そのもの、と言い換えてもよさそうです。