静寂を待ちながら

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真ん中にあるもの その3 ベルガイシュの音楽

その1では日常の豊かさを享受するラボルト精神病院の人たちに、

その2では、祝祭を通じ、それをさらに魅力的な形へ転化することについて触れた。


よく似たはなしが、ポルトガルにあった。


ポルトガル人の女性ピアニスト、マリア・ジョアン・ピリス*1は、1999年、
彼女の自国に「ベルガイシュ芸術センター」を開設した。


ヤマハピリスインタビューページより引用)



詳しくはこちら→

マリア ジョアン ピリスによるベルガイシュ芸術センタ−を訪れて


ラボルトと同じく、1世紀以上前に建てられた古い建物を改装して作られた、雰囲気のあるところだ。


ここでは、若き音楽家を集めて、定期的なワークショップが開かれていた。
ふつう、クラシックのそれは、個人レッスンや公開レッスン、
講師の簡単な講義やコンサート、最後には生徒による発表会、
というのがスタンダードな形式だ。


ベルガイシュはそれだけではない。
晴れた日にはお弁当を持って、みなでピクニックに出かける。
映画監督を招いて、「長回し」から音楽的な呼吸法(フレージング)を学ぶことも。
ときには、日本の能や狂言などの異文化から、エッセンスの吸収をこころみる。


笑いの世界では、「芸は間」と言われる。
ピリスは、「音楽は呼吸」と言った。
歌い、語り、歩く。それがアートにつながると。


どちらも本質では同じ意味だろう。


今では残念ながら閉鎖されてしまったが、
当時、ピリスが台所に立ち、生徒へサラダをつくっていた姿がTV*2で紹介されていたのをよく覚えている。


彼女は、商業主義全盛の音楽業界に疑問を感じていた。
本来、芸術とは生活のあらゆるところに存在するもので、
経済ときりはなして考えることがとても重要だ。
アーティストは、衣食住から、あるいはその他の日々の中から、芸術を見出さなくてはならない、
その環境や時間をつくりたい、

そんな思いで、ベルガイシュを立てたと言う。*3


ご自身の演奏活動との両立は大変だったろうと推察するが、
この意義は、ほんとうに偉大だった。


ラボルトは、日常を舞台へ転化した。
ベルガイシュは、日常を舞台へ転化し、さらに日常へ転化しなおした。


そこには共通してやわらかな心と、
支える五感、幹としての身体がある。


真ん中にあるのは、あなただ。
日々をなにに転化するのかを決めるのも。


本来、はじめから枠は取り払われている。
細分化や専門化は、学びの場で有効にはたらくこともあるが、
罠も抱えている。


祝祭へ私たちをいざなうアートやカルチャーは、
それらを包みこんで溶かしてくれる。


想像力がつなぐ世界に垣根はない。
冷やせば凍り、あたためれば空中に溶けて見えなくなる水のように、
変化しながらずっとそこにある。


「すべての些細な出来事」のラストで、患者さんはこう言った。


『ここにいれば怖くない』
『みんなが仲間だ。今ではあなたも*4僕らの仲間だ』


アートやカルチャーはわたしたちを優雅に守ってくれる。
その先をつくるのは、じぶん自身だ。


あなたは、何から守られ、それを、何に転化するだろうか。


わたしは自分に問い続ける。

*1:現在は「ピリス」より「ピレシュ」と呼ばれることが多い気がします。

*2:NHKの「スーパーレッスン」だったと記憶しています。

*3:前出のヤマハのインタビューや、時を経ての感想もあります。

*4:撮影クルーのこと