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真ん中にあるもの その2 ラボルトの祝祭

前回は、誰もが対等に暮らしている、ラボルト精神病院の日常についてはなしました。


映画の冒頭に戻ります。

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物語は、のびのびと歌う女性のシーンからはじまる。


ここでは、毎年患者さんと看護師、職員などが一体になって演劇を披露している。
外部から家族や観客が招待され、同日にはバザーも開催。
収益は、病院の運営資金に充てられているようだ。


歌は、その劇中歌だ。


すべての人が参加する「協同委員会」では、その会議が行われていた。


演劇療法の一環なのかと思っていたら、演目はかなり本格的なものだった。
この年の出しものは、ポーランドの現代劇作家、ゴンブロビッチ作「オペレッタ」。
過去にはモリエールや日本の能なども上演されている*1



庭に作られ、森と一体化した広大なステージはとても美しかった。
オペレッタ」は中世が舞台であるためか、衣装は貴族的で華やか。
当日は、メイクも役柄に沿ってきっちりと施された。


練習は真剣だ。


楽隊で楽器をやることになった患者さん。
興味を持たせるため、アコーディオンでフランス国歌の一部を演奏する音楽監督
耳馴染みのある曲を聴いて喜ぶ患者さんは、「もっとやってよ」とせがむ。
しかし監督は冷静に「いやだよ」と拒否。
早く練習に入りたいのだ。
そして彼は、劇中曲を弾き始める。
音楽に合わせて生き生きとダンスの練習を始める人たち。


ちょっとすねる患者さん。


とても印象的なシーンだった。


面倒なのか、練習になかなか来ない患者さんもいた。
「ちゃんと来てよ」と怒られ、ぶつくさ言いつつ参加。


絵が得意な患者さんは、プログラムの表紙を担当。
ちいさな失敗を経て、彼は成長した。
描き始めると集中して「頭と意識だけ」になると言い、
じぶんの絵をカメラに向かってとても誇らしげに掲げた。


根気よく、ていねいで人間味あふれる指導は、各所で実を結ぶ。





ある患者さんが、この催しについて語った。



『これは、ラボルトのお祭りなんだ』



発表の日には、高揚と幸福が溢れたラボルト


件のサボっていた患者さんは、結局参加しなかったようだ。
しかし、それすらもゆるやかに包み込む祝祭。


わたしは、この話を思い出した。


日本古来の「田の神祭り」と、天皇家で行われる「世襲大嘗祭」をむすびつけた論考。

(*田の神祭り
日本で古来より行われていた、民俗的な農耕祭儀。
12月に、家へ男女の神様を招き入れてもてなし、2月に田畑へと導く祭祀。
五穀豊穣を願う。



世襲大嘗祭
天皇皇位継承儀式。
「田の神祭り」を模して、五穀を神に捧げる。
そのあと自らも食すことによって、「神」からの魂込め、すなわち神託を頂いたとみなす祭儀。)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


民俗的な農耕祭儀では、
対幻想の基盤でもある〈家〉とその所有(あるいは耕作)田のあいだに設けられた祭儀空間は、
世襲大嘗祭では悠紀(ユキ)、主基田(スキ)の卜定となってあらわれる。


(中略)
同時に〈田神迎え〉と〈田神送り〉のあいだの二ヵ月ほどの祭儀時間を数時間に圧縮するのである。


(中略)


わたしたちは、
農耕民の民俗的な農耕祭儀の形式が〈昇華〉されて、世襲大嘗祭の形式にゆきつく過程に、
農耕的な共同体の共同利害に関与する祭儀が、規範力〈強力〉に転化する本質的な過程をみつけだすことができよう。


(中略)


そしてこの契機*2がじっさいに規範力にうつっていくためには、
祭儀の空間と時間は、
〈抽象化〉された空間性と時間性に転化しなければならない。


この〈抽象化〉によって、
祭儀は穀物の生成をねがうという当初の目的をうしなって、
どんな有効な疑定行為の意味ももたないかわりに、共同規範としての性格を獲得していくのである。



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改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

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吉本隆明共同幻想論」 祭儀論 P.148〜151 より抜粋

わたしは、この舞台が、支配の力になっていると思っているわけではない。
祝祭が、ひとの営みを抽象化し、なにかへ転化しうるものなのだということ。


ラボルトは、こころの傷ついた人たちが羽を休めているところだ。


しかし、彼らは「病人」として阻害されない。
そこには豊かな日常がある。
ごく自然な人間関係、ちょっとした仕事は、精神と身体へよい影響をおよぼす。


年に1度の舞台は、その集大成と言ってもよい。


あらゆる祝祭のむこうに、なにかベースがあるのなら、
人間らしい生活を美しく昇華し、抽象化したのが、この祝祭だ。


つまり、生活そのものの転化が、ここの舞台なのだ。
それは芸術の本質とも言える。


芸術という言葉がかたいなら、アートでもカルチャーでもなんでもかまわない。


音楽も演劇も、笑いも文学も漫画も、テレビも映画も、
心身を使って想像力を育む。
たとえば、視覚が優れた人は絵や写真を、
聴覚が優れた人は音楽を、
つくったり楽しんだりするだろう。


それは、ささいな日々を彩り、
さらなる想像力やアートを生みだす力にもなる。
日々へ戻れば、また豊饒となる。無限のループ。



わたしは、もうひとつ、よく似たはなしを思い出した。
続きは次回へ。

*1:モリエールは「町人貴族」「女房学校」など。今回もコメディでした。やはり、喜劇が取り組みやすいのかもしれませんね。能は「綾の鼓」とのこと。

*2:共同社会における、共同利害に関する祭儀(ここだと農耕)というのは、必ず規範力に転化しうるという可能性があるということ。