静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

受け手の領分

先日、お笑いファンのtwitterの中で、ちょっとした物議がかもされた。



現在、笑いを享受できるメディアはテレビ、ラジオ、ネット、舞台などがあるが、
その一部を取り上げて、「お笑い」という概念の総意とすることへの違和感が、端緒だった。



それは、さまざまな人の考えを通過し、「テレビ派かライブ派か」という議論にも発展した。
ライブ通いを続けるには、ある程度、環境が整っていないと難しい。そのため、ライブ・舞台の笑いに重点をおくタイプの考え方が、多くの人を傷つけたように思う。



このことを考えるにあたっては、出来るだけ感情を排した。個人的にひとつの結論に達したので、書き記しておく。

…………………………
ピースは、長らく若手を中心としたライブで人気を博していたが、2010年ころからテレビでも活躍するようになった。



「新潮 2012年1月号 古井由吉×又吉直樹対談『災害の後に笑う』」の中で、又吉さんはその時に感じたことをこんなふうに語っている。

古井「テレビの向こうに広がっている空間を思うことはありますか。
又吉「はい、それは思います。でも、そう思う作業が結構難しくて。」
古井「そうでしょう。目の前に広がっている空間を別の空間へと変換しようと思っても、なかなか感覚的に修正しきれないんじゃないですか。その分だけ抽象的な世界になっているわけだ」
又吉「お客さんを入れる収録の時はまだ自分の調子が分かるんですけど、ただカメラを前に喋っていいるだけだと……。」
古井「ああ、これは苦しい。芸人がお客さんのいないところで芸をするのは、多分歴史が始まって以来、今が初めてなんじゃないでしょうか。」


(中略)


又吉「目の前のお客さんを楽しませるのが昔の芸人だとしたら、今の僕らの行為は、例えばテレビを通していろんな世代のさまざまな考え方をもつ人たちに見られてるわけで。
そうなると、やっぱり想定外の人も見ていますから。
届かなかったり、逆にすべての人に伝わることが自分のやるべきことなのかと感じることもあったりして。」

新潮 2012年 01月号 [雑誌]

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「人を笑わせる」という行為で、ある程度共通のものはあると思う、と後半で述べつつも、媒体の違いが、彼にある種の戸惑いや迷いを生じさせている。




2009年9月29日配信の「月曜JUNK バナナマンのバナナムーンpodcast」では、キングオブコントで優勝したばかりの東京03がゲストに呼ばれた。
キャラクターの薄い豊本さんを、テレビ出演でいじる折にどうしようかと案を出し合うなかで、語られたこと。

(舞台に出るときの豊本さんのいじり方について)
飯塚「一応、ミステリアスな感じにはなってきつつありますけど」
設楽「でも、それってね、ライブシーンではいいよ。
テレビは、より、大衆演芸だから。
(中略)
人間味の勝負だからね、こっからは。大事なのは。
そこが全然(分からない状態)でミステリアスだと、なんだこいつ、どうやっていじりゃいいんだってなっちゃうからね」


http://www.tbsradio.jp/banana/index.html

20090929.mp3

舞台に比べ、テレビはより分かりやすく、例えば面白い顔や人柄などの、多くの大衆から共感が得られるものが商品価値につながると、設楽さんは力説した。

舞台でのコント、そしてテレビのバラエティ番組の両方で活躍するバナナマンだからこそ、どちらの特性も分かるのだと思う。



また、2001年2月24日、テレビ朝日「地下完売劇場朝まで生テレビ?! 笑いの本質はテレビか舞台か』」において、ラーメンズ小林賢太郎さんが語ったことは、とても興味深い。

小林「『笑い』っていうのは1本の固まりではないので、テレビも舞台も答えが違うから、ここで比べられるものではないと思うんですよ。


100m走と、25m自由形で競争させるようなものなので。


それぞれの道で頑張っている人もいれば、どちらかをどちらかのステップにしている人もいれば…。

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ラーメンズは笑いの場として、「自分たちが向いていて、好きな」舞台を選択した。


だからといって、テレビの笑いについても、否定していない。

小林「シティーボーイズさんは、『テレビで稼いで舞台で使う』という。
僕大好きなんですけれども。

実際、テレビで見るのと、その舞台と、全く違うんですよ。方向性というか。
だからね、びっくりしちゃうんですよ」
(中略)


シティーボーイズのメンバーが)テレビでやっていることと、舞台でやっていることは全く違う。
(ためらいながら)おこがましい言い方なんですけど、(どちらも)ちゃんとできているんですよね。
きたろうさんを(テレビで観て)笑ってるんですよ。
でも、舞台のきたろうさんも観て笑ってる。

違う種類の笑いが起きている」

どんなカルチャーも、メディアによって、表現に相違があるのは当然だ。



大衆性が高く、スポンサー・局の制作など多くの人が関わり、現在もっとも世間への影響力を持つテレビ。
テレビと仕組みは同じでありながら、よりコア層へ発信するラジオ。
ラジオと同等、あるいはそれ以上のコア層に訴えかけられながらも、世界配信という特性から、ある種の倫理観も求められるインターネット。
密室性が高く、観客との親和性が高い舞台。



たとえ同じ演者が出ていても、違う引き出しを開けて表現している、というのが実情だろう。



また、余談だが、各種メディアは、表現者の創造性によって発展してきたという経緯がある。
例えば、初めて劇場の客席の明かりを消し、扉を閉じて密室性を演出したのはワーグナーだ。*1
かつては観客がうるさくおしゃべりするのは当たり前、というメディアだった舞台へ、彼は密室性を持ちこみ、新しい表現を提示した。



あるいは、4月に開局したDOCOMOの「NOTTV」。
これは、テレビという超大衆メディアとは異なる、コアな表現の場として作られたものだ、ということを、出演者や制作者が方々で語っている。



メディアの変化、誕生は表現者の変化にもつながる。
新たな表現、新たな笑いへ出会うチャンスだ。



2012年3月17日、伊集院光さんは、北海道ローカル局の「HBCラジオ60周年記念スペシャル」において、「ラジオとテレビの違いは?」という質問を受け、こんなコメントを寄せた。

伊集院「ラジオとテレビは、カレーライスとオットセイくらい違うメディアです」

とても、核心をついた言葉だと思う。




それらは単に「特性」であり、優劣はない。
どれを楽しむのかは、各々のライフスタイルや好みなどによる。
メディアによって、「客・受け手」が異なるのは、しごく当然なことだ。




正誤も優劣もない。





ただ、それぞれの客として、自分の愛するメディアが発展してほしい、と思う心情は理解できる。
好きなテレビ・ラジオ番組の視聴率が高かったり、ひいきの芸人が出演する舞台の客席がびっしり埋まっていたりすると、嬉しいものだ。




受け手として出来ることは、たったひとつ。


「己が最高の客になること」



最高の受け手として、一人の人物を挙げたい。

川勝正幸(亨年55)


川勝 正幸(かわかつ まさゆき、1956年11月21日 - 2012年1月31日)は、音楽や映画などサブカルチャーを守備範囲とするライター、編集者。自称「ポップ中毒者」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E6%AD%A3%E5%B9%B8

スチャダラパーなどを世に紹介したことで知られ、日本のポップカルチャーシーンをけん引してきたエディターだ。




彼の文章は、どれも情熱的で、対象への真摯さと愛情にあふれている。



好きなものをあけすけに「好きだ」と公言して楽しむ姿勢と、
チャーミングであり、懐の深さを感じさせる発言や人柄は、彼を超一流の受け手であり、発信者にした。



信頼できる人間性を持った人が楽しそうに語っていれば、蜜の香りに誘われる蝶のように、周囲が引き寄せられてくるものなのだと思う。



それが、応援者として、受け手にできる最大限のことだろう。


……………………

しかし、




私の祖母は、若い時分は、年がら年中、旦那が経営していた店を手伝い、
子供に店を譲ったあとは、孫の成長を見守りつつ、近所の漁協に顔を出して漁を行う日々を送り、病気になり、果てた。
およそ文化とは、まったく無縁の生活であった。




だからといって彼女の生涯が、豊かではなかったと、断言出来るのだろうか。
お笑いだ、音楽だ、ライブだと狂騒している私が、彼女よりも良い人生を生きていると言えるのか。



所詮、そんなことなのだと思う。