静寂を待ちながら

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受容と寛容のワイルドライフ(AKBの事件について)

こんにちは。今期は「俺のダンディズム」にすっかりはまってしまいました。滝藤さんの顔芸、最高ですよね。

ブログも毎回楽しんでます。そして、7月始まりのドラマ、「おやじの背中」に今からわくわくしっ放しです。木皿泉・坂元祐二・三谷幸喜山田太一倉本聡(敬称略)脚本って、なんて豪華なのだ!

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さて、今回はゲーセワネタでございます。AKB握手会の、あのかなしい事件についてです。幼いころからアイドルが好きで、テレビの前やカラオケで踊りながら歌ってきたわたくし、あのニュースを見て本当に胸がつぶれるような思いがいたしました。まずは、被害を受けたお二人と周囲にいたメンバーの受けた心身の傷が、一刻も早く癒えることを祈っています。
犯人は精神鑑定を受けるらしいですね。ただ、異常な状態だったとしても、彼がそこへ至る道のりは、決して他人事ではない。誰もが陥る危険性がある、という気がします。というのは、自傷にしても、他傷にしても「傷つける」ことって、おそらく「排斥」という心理が働いているのではないか、と感じたからです。
いわゆる「社会生活」や仲間・周囲の人たち、あるいは「理想の自分」なんかと現実との折り合いがうまく付けられない、ってのはよくあることだ。そういう己を、またはうまくやってるように見える他人を「排斥」したいという気持ちは、結構多くの人の中に眠っているのでなかろうか。こそこそ悪口をいったり、飲み食いして爆発させたりとかの行動と、心情的には地続きだと思う。
で、何故、ヒトはそういう感情にとらわれてしまうのか。
なにか思うに任せぬ事柄に対して上手に対処できず凹み、攻撃的感情が目覚める段階に至ると、おそらく「排斥」されたと感じる出来事よりは、自分の考えそのものに押しつぶされた状態になっているのだろう。つまりはその根が「関係幻想」にあるってことだ。「関係」とつけたのはそれが社会とか周りの人、あるいは自分自身へたいして抱く感情、要は「VS的に排された、と感じる幻想」だから。そう、幻想なんです。あるはずのない空間や時間を錯誤して「ある」、と思いこめるのはヒトの特性だ。心情と理性を持っているからそんなことができてしまう。その最たるものが「死」への幻想です。「自分の死」って絶対に想像でしか分からないのに、あれこれと考えては心を乱す。そんな無駄なこと、多分他の動植物はやっていないだろう。
吉本隆明さんは共同幻想論の「他界論」で「死は人間にとって〈作為〉された幻想で、それは他者や共同体へたいする関係幻想から侵食されたものと言える」とおっしゃっています。間接的に見聞きするとか、「天国・地獄」の話なんかに触れることでしか体験できないものが死だと。幻想、つまりは想像力ってことですよね。もちろんそれは悪いことばっかりではありません。正に転化すればあらゆるクリエイティビティになり得る。でも負に転化すると今回みたいな事件に繋がってしまうのでしょう。
ただ、私は思うのです。決定的な死は経験できないけれども、実は生物って皆「死」を抱えて生きているのだと。髪や爪や、内臓のなんかしらの細胞は常に生まれ死に、交代のロードは留まることなく続いていく。わたしたちはいつも、死にゆく己と一緒に生きているのだ。体内から排斥されるまで、しばらくそこにある「死」。それと共にある「身体」に集中することが、幻想に溺れ過ぎないための助けになる気がします。つまり、排斥の感情って、持ってて当たり前だと思うのです。だってわたしたちは、本来排斥すべきもの、つまりはある種の「闇」と共に生きていて、しかもそれを強く意識できる「想像力」を持っているのだから。なら、もう認めちゃったほうが楽ですよ。暴論ですが「俺、死にたいなあ」「あいつ(ら)を殺したい…」という気持ち自体を悪いものって捉えずに、全部受け止める。不快でもなんでも味わいつくして、よしよし辛いよね、でもそれ全部妄想だから落ち着こうね、と自分の頭をなでたりうまい茶なんか飲んだりしているうちに、だんだんのんきな心持ちになってくるでしょう。それは適当で楽しい、ワイルドライフへの第1歩です。目指せ高田純次
生きるとはままならないことであります。選べるようで何にも選べない。でも、そういうもんだよ。吉本さんもいってたよ、「諦めてうまくやっていきなよ」と。
後半、どんどんしょうもなさが増してしまいましたが、これが今のわたくしの偽らざる本音です。まゆゆセンターの曲をたのしみにしつつ、あーりんの順調な回復を喜ぶアイドルヲタ人生を、これからももっと充実させていきたいと思います。ご静聴、どうもありがとうございました。