静寂を待ちながら

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「異和」はわたしのなかに(音楽界の騒動から)

こんにちは。「最高の離婚SP 2014」にいたく感動し、小沢健二さん*1を通過してお父さまの小澤俊夫さんのファンになりつつある今日この頃です。
さて、本日はゲーセワネタでごさいます。一連の「本当の作曲家はだれだ!*2騒動についてです。でも直接的な話は一切ありません。毒にも薬にもならないわたしの考え、素人のいち意見です。


…………
音楽でもとりわけクラシックの世界では、定期的に身障者のスターが出てきます。すごくデリケートな事柄なので書くのが難しいんですが、盲目だったり手足の機能不全だったり、あるいは知的障がいだったり。もちろん最終的には魅力的な演奏(作曲)家であるかどうかが問題なので、ファンは案外冷静に聴いているもんですけと、親御さんや指導者の苦労とか、御本人の道のりをストーリー化しやすいから、マスコミ受けするのは確かです。そして、幅広く紹介される際、どうしても受容する側に「上から目線」が介在してしまうのは、悲しいけれども現実だと思います。まあ一度音を聴けばどうでもよくなるんですけどね、外的なことは。
そもそも障がい者の受容史は実に豪快です。古代では例えば巫女のように、神がかりを伝達する特別な人であったり、彼らが無為に発することばにすら示唆的な、予言的な内容が含まれていて、それは自然からの恵みだと考えられたりしていたから、ある種の尊敬を受け大事にされていたようです。しかし悲しいことに、彼らが忌み嫌われる存在になってしまった時代もありました。中世ヨーロッパでは彼らの一部は「宮廷道化」としてかくまわれ、「そういう人々を雇っている俺すごいだろ」的な、ステイタスの道具として扱われました*3。宮廷の中での彼らはその所業を嘲笑されるものの、唯一王に対して遠慮なしにものが言えるちょっと不思議な立ち位置だったらしい。*4日本だと、遠野物語の河童譚などを読むと、周囲から蔑まれていたであろう彼らとその母親の状況を推測することができます。
つまり、

神のように崇められた古代から、働けないから人間以下だ、と蔑まれた近代社会に至るまでの目も眩むような価値観の変遷が、障害にたいしてあたえられてきたわけです。

心とは何か―心的現象論入門

心とは何か―心的現象論入門

3*5 障害者問題と心的現象論 P.176〜177より抜粋

そして現在、誤解を恐れずに言うならば、以上の全てを内包すると目しているのが彼らを扱うメディアなのでは、とわたしは思っています。(もちろん誠実な対応をしている媒体もありますけど)何というか、勝新太郎の豪放エピソードをありがたがって聞くみたいな心理と似ている気がするんですよね。「褒めたいのかけなしたいのか分からない目線」とでもいうのか。でもそれって、コンサートを見て聴いて、「ドレスが素敵だった」「ピアノの人えらいイケメンだった、もっと正面から見たかった…」「曲に合わせて照明を変えたりして凝ってたなあ」などと本筋以外にも何かを見出すことを、どんどん押し広げていた先にあるのではないかと。舞台観賞は虚構度の高い体験ですし、非日常や夢を強く求めるのは当たり前なのかもしれません。ディープなファンだけでなく、多くの人へ訴求するためのひとつの手段として、取っかかり的に障がいや容姿を押しだしていくことは今後も続いていくでしょう。
しかし何故こういうことに人は心をゆさぶられるのか。
前述した中世では、宮廷という囲いの中で生きなくてはならない貴族たちの閉塞感をいやす慰みとして、彼らは大いに力を発揮したようです。また古代においては、異界と自分たちを繋いでくれる存在とみなされていただろうし、遠野…だけでなく、まあそれくらいの時代の日本の農村では異形の子どもが生まれるとびっくりしたものだから、そりゃ河童の子だからさ、みたいな理由付けが必要だったのでしょう。嘲笑したり抹殺したり、あるいは大げさにとりたてたり。その心理のベースにあるのはきっとこういうことだ。

まず、生命体(生物)は、それが高等であれ原生的であれ、ただ生命体であるという存在自体によって無機的自然にたいしてひとつの異和をなしている。この異和を仮りに原生的疎外と呼んでおけば、生命体はアメーバから人間にいたるまで、ただ生命体であるという理由で、原生的疎外の領域をもっており、したがってこの疎外の打ち消しとして存在している。(中略)この疎外の打ち消しは無機的自然への復帰の衝動、つまり死の本能であるとかんがえられている。

1 心的世界の叙述 P.23より 抜粋*6

ばかのひとつおぼえのように吉本隆明さん著書からの引用ですみません。無機的自然とあるけど、ここを「身体」と置き換えると分かりやすいかと。実際、吉本さんも後にそのような身体論を著しております。要するに、彼らにたいする異和的*7な心情の発露・それにともなう行動の原因は、すなわち自分自身の身体にたいする異和、それによっておこる心の動きが根っこにあるせいではないかと。生きていることは奇跡というけど「異和感」でもあるんですね。生まれいづる悩みよ。
自身にたいする異和とは、ベタなところだとやっぱり見た目とか内臓の不調とか、あとは性格・知的レベルとか、そういうことにたいする己の意識のはたらきです。自分の肉体や中身のあれこれが「思てたんと(求めてたんと)違う…」っていう感覚は多かれ少なかれ、誰の心にもあるものだと思います。周囲と自分との比較がその意識をよりうながす。
また、自分のことを正確に、客観的に捉えるのはとても難しいことです。だいたいは点が甘くなるもんだ。逆に卑下している場合でも、冷静に捉えていないという意味では変わりないです。そして、そういうじぶんの理想といくらか離れた自分からは決して逃れられない。逃れたときは「死」です。そういうある種の閉塞感に、自己認識と現実のずれが複雑に絡み合い、ひとは何か異和を感じる出来事や人々やエピソードに心を傾けてしまうのではないでしょうか。わっかりやすい「障がい」や無頼派な話のなかに、ひとは「自分をそのまま受け止められない現実」を見ているわけですよ。それはあなたの心の中にあるのだ。どーん。
ところで、最初に引用した文章の続きはこうなっています。

けれども、これに対して現代は、徐々にではありますけれども、身体障害というものは、〈神でもなければ人間以下でもないんだ、それは人間なんだ〉という概念が少しずつ、少しずつ既得権といいましょうか、少しずつその概念が闘いとられてきつつあるということ。そのことが、ぼくの考えでは、おおきな解決、唯一の解決の糸口なんじゃないかとおもわれます。


「心とは何か」 3 障害者問題と心的現象論 P.177より抜粋

ちょっとでも違う部分を持つ人を異端視するのはじぶんを受け止めきれていないからだとすると、「ああ、妙に気になるってことは俺の一部がそこにあるのだ」と多少なりとも考えられれば、寛容で風通しのいい人間性が形成されるはずです。そういうやわらかい心が観察力・洞察力をはぐぐみ、目先のしょうもない脅しやごまかしに囚われず、物事を見る手助けになるのではないかと、わたしは思いました。というか自分がそうありたいと思ったのでありました。がんばります。


最後に、新垣隆さんが本流のお仕事でも劇判などの依頼ものでも、これまで同様に活躍されることを現代音楽のいちファンとして祈念し、筆を置きます。ご清聴ありがとうございました。

*1:最後の光生の手紙がオザケンみたいだ、という意見を散見したのです。

*2:余談ですがwikiって凄いですね。もうこんなにまとまっているとは。

*3:ただそれはごく一部の人々で、大半の障がい者は物乞い等をして生活していたそう。

*4:ここの一連について、主に参考にしたのはこちらこちらです。

*5:出典ではローマ数字表記

*6:手元にあるのは昭和57年発行の角川文庫初版なので、改訂新版とはページが違うかもしれません。

*7:一般的には「違和」と表記しますが、吉本さんに準じて「異和」としております。