静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

本当のわたし その4 わたしのすがた、わたしの身体

その1では分人主義、
その2ではこころの在処について、
その3ではヒトのこころに心情と理性が生まれる過程について触れた。


いよいよ本題へ。
「分人主義」、
つまり「ヒトの心はコミュニケーションによってのみ作られている」というのは本当なのか。


それから、
自殺志願者への救いとしてどこまで機能するのか。


…………


その3で触れたように、ヒトのこころである「心情と理性」のありかは、
それぞれ「内臓の動き」と「感覚器官のはたらき」だ。


心情は、植物的器官と動物的器官のあいだに、
理性は、動物的器官と外的要因のはざまで生まれる。



「分人」は、心情では対処できない側面を整理しようという試みだ。
すなわち「理性」のありか、
「動物的器官」と「外的要因」の部分に存在するもの。


平野さんは「外的要因」をコミュニケーションの問題としてまとめたが、
これは対人関係だけではなく、居住地や立場、ジェンダーなど広く「環境」と捉えてもよいだろう。


外的要因というのは、選択可能なようで実は選べない。
希望の場所に就職できたからといって、そこが居心地良いかどうかは分からない。
自分と相性のよくない上司に悩まされる可能性もあるわけで。


それでも、意識をコントロールしていけば、
要は「理性」によって分人の構成比率を変化させることで、
苦手な人のいる場所でもうまくなじめるかもしれない、ということだ。
距離を取ってその人と過ごす「分人」比率を下げたり、思い切って飲みに行って懐に飛び込み、対処する「分人」を変えたり。


そうやって絶え間ない自己形成を、周囲との関係によって調整していくことを
俗に「大人になる」ともいう。大事なことだ。


ただ、ここまで考えてみて、
わたしは、コミュニケーションだけがヒトのこころを規定するものではないという考えにいきついている。
それはあくまで、「外的要因」と「動物性器官」という、割合に進化の後半でつくられた箇所で行われているものである。
つまり理性が未成熟であれば、うまく使いこなせない可能性があるということだ。



また、その手前、もっと言えば根幹にある、
「植物的器官」についてよく味わうことも、
やわらかな救いになるのでは、とも思う。


…………


植物的器官。


再び、吉本さんの著書より、ヒトの身体に備わっている自然的リズムについて。

(前略)


2 ダイバーたちがいうように海に潜って聞く波打ちの音は、心臓の鼓動とよく似ているそうです。そして胎児が聞く血流音はやはりこの音だと三木氏はいっています。


3 からだの呼吸と循環のリズムは海原のリズムであり、そのリズムの中枢は延髄にあるということです。


4 犬、猿、人間など延髄を持った動物はかならず十六秒のリズムを持っている。このほか二十五秒のリズムもある、たとえば臨終のときのいびきの周期は二十五秒だそうです。


5 人間(ヒト)の睡眠と覚醒のリズムは二十五時間だと言われます。これは地球と月との関係、言いかえれば潮汐のリズムとかかわっています。これにたいし地球と太陽の関係、いいかえれば昼夜の周期は二十四時間です。人間(ヒト)の睡眠障害や覚醒障害はこのずれから由来しているそうです。


まだいくつも数えあげられます。 




「心とは何か 心的現象論入門」 2 三木成夫について P.131 より抜粋

俯瞰で捉えると「動物」として生きるヒトにも、植物的な側面が眠っている。
それは生きている間、自分では決してつかめないじぶんの内臓がつかさどっているのだ。


幼き頃から、リレーでバトンを受け渡すように連綿と続いてきた、この身体の中に確かに存在するもの。
近すぎて、内側過ぎて見えず、よくわからないもの。
動かし刺激を与えれば、その感触を多少は確かめられる。
しかし、刻々ときざまれている沈黙のリズムをありのままに感じるのは難しい。


それでも、
わたしたちの身体、そして「こころ」は、
壮大な自然によって静かに守られている。


さらにいえば、身体は両親からもらったもので、自分では選択不可能でもある。
外見も、内臓のコーディネートも。


選べない。よくわからないもの。
それが「本当のわたし」の姿だ。


結局、自分の意志で選べるものは何一つなかった。
ただ、自然リズムとの呼応がヒトの身体にあることが、
わたしはある種の救いになると思っている。


人は孤独だが、見捨てられた存在ではない。


人を人たらしめるのが理性であり、それを活用し上手に機能させることのひとつが分人主義である、それは間違いない。
ただ、「人として生きること」の前には「生命として生きること」がある。
それは下位概念ではない。
どちらも同列だと、わたしはここで断言する。


言いかえれば。
実存主義構造主義、その両方が心身には存在していると思っている*1


辛ければ、目を閉じちゃってもいいんです。
それは全然恥ずべきでない。メンテナンスです。
呼吸に集中しつつぼーっとして、旬の美味い物を食べたりして。


あと、音楽とお笑い、やっぱりいいですよ。理論的にも多分。
余談ですが、「夢売るふたり」の西川美和監督の作品で音楽をいつも担当している、
モアリズムさんのトークショーを聞いたときの話*2


映像に合わせて音楽をつける際、純粋な役者と芸人さんではせりふ回しが違うから、音楽の付け方を変えるのだそうだ。*3
芸人さんは一定のリズムで話すからどんな曲もわりあいハマる、ただ役者さんは結構変化するから、一定の拍を刻むのみの楽曲はあまり適さないとのこと。


自然リズムに沿う手助けとして、音楽やお笑いはだからけっこう有効なのではないかと。



閑話休題



わたしは、平野さんの「分人主義」を支持している。
ただ、併せてその手前にある「植物的なわたし」の自覚も提唱していきたいと思う。


多角的におのれを捉えることと、
こころのありかや起源を知ることは、きっと生きる支えになると信じている。

*1:wikiですがリンク張ります。実存主義 構造主義。また、これについてBIOMANさんがceroを絡めて素晴らしい考えを語っています。ぜひWEBフリーペーパー「メランコフ」最新号を。DLすればPDFで読めます。

*2:「ディアドクター」公開時、シアターキノにて。

*3:3作目「ディアドクター」と「夢売るふたり」は鶴瓶さんが出演。調べるとこの2作にモアリズムが劇伴しているようです。