静寂を待ちながら

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本当のわたし その3 こころとあたまの所在地

その1では、分人主義について、
その2では、その基になるこころの在処について触れた。


こころの在処である内臓の動きを、さらに詳しく。

ヒトのからだ―生物史的考察

ヒトのからだ―生物史的考察


三木さんいわく、ヒトの身体には植物的器官と動物的器官がある。
そのはざまに「こころ」があるというのだ。


ひもとくと、
植物とは「植わったもの」であり、
自然と協力し、リズムに呼応しながら生きている。
それに対して、
動物とは「動くもの」だ。自然と闘いながら生きている。


そして、
植物的器官は「栄養ー生殖」をつかさどる。(消化器官や呼吸器、循環器、生殖器など)
動物的器官は五感や脳、あるいは筋肉などで、
こちらは「感覚ー運動」を支配している。


乱暴にいうと、
栄養を運び呼吸をし、生殖を営むという「生きる根幹」を担うのが植物的器官。
なにかを見聞きしたり、身体を移動させたりして、外的環境を受容・選択するのが動物的器官だ。


また、
植物性の筋肉は内臓を動かす。
基本的に休むことなく一定のリズムではたらき、疲れを知らない。
一方、動物性の筋肉はすばやい運動が可能だが、とても疲れやすくて持久性に欠ける。


しかしこれらは単純に分けられない。互いに複雑にからみ合って存在している。



三木さんは、生命の「進化の過程」をたぐることで、ヒトの身体とこころの関係をさぐった。


…………
以下、同著を参考に、呼吸器官を例にとって説明する。


まず、生物は海の中で誕生した。
そこにあった呼吸器官は「エラ」と皮膚呼吸。これがもっとも原初的な呼吸器官だ。


歴史は流れ、生命は環境やえさを求めて「上陸」を果たす。


そのとき、身体には劇的な変化が起こった。
水呼吸から空気呼吸への切り替えの際、エラ呼吸の場であった「エラ腸」が退化。
かわりに、そこの壁から空気で大きくふくらんだ風船のような「肺」が膨張しだした。


身体の側面にあった「エラ」はどんどん形を変えていく。


まず最初のエラあなが耳となって残った以外は、すべてが閉じた。
エラ骨は退化し「首」となる。
エラの筋肉はそしゃく・表情・嚥下・発声などの運動へと、役割を転換。
呼吸とは、直接関わりを持たなくなった。
それから鼻も開通。
肺の中には無数の小さい部屋が、気官の入口には声帯もできた。


これで「陸上呼吸」の準備が整った、ように見える。


ただ、肺がふくれたことで壁はとても薄くなり、筋肉がほとんどなくなってしまった。
そのため、自身の力では自由に伸縮できなくなる。


それを補ったのは、「動物的器官」だ。
つまりは動物性の筋肉である。
くびから胸にかけての体壁の筋肉が発達。
「胸壁」をつくって、この運動に当たるようになった。


水中では、エラが淡々と一定のリズムで自力で伸縮し、行われていた「呼吸」。


陸上での「肺呼吸」はもう少し複雑だ。
まず生き物は胴体を膨らませ、体腔の内部に陰圧を作る。
これによって肺に空気を入れる。
次に、肺自身が元に戻ろうとする「弾力性」を使って空気を追い出す。
周辺の動きと、呼吸器自身の動きを組み合わせて息をしているのだ。


この薄い「肺」を守るためにやがて肋骨が現れた。
その下には横隔膜も登場、呼吸の動きをしっかりと支える。


つまり、「植物的器官」であった呼吸器系が、
進化の過程で「動物的器官」に支配されたのだ。


ここに、「心情」すなわちこころが発生する。


移動など、エネルギーをたくさん使う運動をしているとき、
筋肉はそちらへ集中してしまう。
そのため、呼吸がおろそかになって疲れが生じる。気持ちも追い込まれやすくなる。


そんなときは「ひと息つく」「間を取る」などすれば、こころも身体も落ち着かせられる。


…………


「芸は間」とか、「音楽は空白に宿る」といいます。
リズミカルにずんずん進んでいく心地よさ、その中に効果的に挟まれる「間」を美しいと感じること。
その心情の源は、
呼吸という生命のプリミティブな動きと、動物的本能につかさどられているのかもしれません。


…………


それから、五感を支える器官などの「動物的器官」。
外的要因を受容するこれらは、「脳」によって象徴される。
ヒトは、このジャンルが究極的進化を遂げた。


再び例え話。
ふと気が付くと遠くのほうからかすかに音が聞こえてきた、
そして何かの匂いが漂ってきた…、とする。


そんなときは、息をつめて耳をすませたり、ちょっと近づこうと動いてみたり、
香りを確かめようと大きく吸い込んだりする。
いい匂いなら「ああ」なんて笑顔でため息をつくかもしれない。


こんなふうにわたしたちは、五感(動物的器官)で受け取った情報をもとに意志を表出することができる。
呼吸器や、その他の植物的器官の動きを助ける筋肉には、
脳の指令を受け取るための神経が張りめぐらされているからだ。


脳の命令によって「意志」を表せる。つまり呼吸(やその他の内臓の動き)を自在に強めたり止めたりすることが可能ということ。
三木さんは、これを「あたま」のはたらきとしている。


それから、「ああ」と感嘆することによって、内臓に動きが発生する。
声帯を震わせ、「快」の表情を作り、息を吐けば、
血流にも変化が生じるだろう。
すると内臓(ここでは心臓)が動いて、また心情の基になるというわけだ。


こんなふうに、内臓の進化の過程を見ると、
心情が生まれ、その後に理性が発達するのがヒトということになる。
ただ実際はそう単純ではなく、心情が理性を呼び、さらに心情の基となって…というからみ合いがある。


もともとは淡々と動いていた植物的器官。
それは進化の過程で、外的要因を受け入れるための動物的器官に支配された。


ただ、それは単に外的要因に適応するはたらきを持っただけではなく、
心情を形成し、理性を生み出す起源にもなったのだ。


まとめると、
植物的器官と動物的器官のはざまに「こころ」が、
そして動物的器官と外的要因のあいだに「あたま」が生まれるということになる。


境界にはいつだって秘密が眠っているのかもしれない。


まあ、こういうことでしょうか。↓

体は全部知っている (文春文庫)

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では、当初のテーマに戻ることにする。
「分人」とともに考えたい、「柔らかい救い」について。



続きは次回