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本当のわたし その2 こころのありか

その1では、平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」にふれた。


「分人」とは、自殺者や生きにくく苦しんでいる人への、新たなこころの捉え方だ。
さっとまとめると、
基本的に自我は、コミュニケーションによって形成される。
たとえば親、兄弟、友人…、もっと広げるなら居住地や食べ物・さまざな環境など、あらゆる外的要因がもとになっていて、
決してじぶん一人で生み出しているわけではない。
また、どの面が表に出てくるかはTPOによって異なり、そのひとつひとつを「分人」と呼ぶ。


唯一不変の「本当のわたし」は存在しない。すべての分人が本当のわたしなのだ。


ゆえに、こころは自己コントロールが可能である、ともいえる。
もし、現在の自分が苦しいのなら、
分人の構成比率を、現在のじぶんが最も心地よい、と思う形にしていくことで解消される。
「苦手」「辛さの要因」になっている分人を減らし、「好き」な分人を増やしていけば、
生きやすい自我をつくれるのではないか。


昨今の自殺者過多の社会へ対する、平野さん流の提言だ。


詳しくはこちら↓

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

大変読みやすいです。分人主義に興味のあるかたはぜひ。


ひととおり、彼の考えに触れてわたしにはある疑問が残った。
…………
まず、自殺志願するほど追いこまれている人に、自分のこころをコントロールしようというエネルギーが残っているだろうか。
その前になにか、もう少しやわらかい救いのようなものが必要だと感じる。


また、分人主義は仏教の縁起説にも似ている。

縁起説
実体は存在せず、ただ相依相関する関係のみが存在する。
自我もまた、他者との関係を否定して独立に存在し得る実体ではない。
*1


欲・我執を手放し、慈悲を持って生きるための仏陀の教え。
わたしはこの考えにずいぶんと共感もしているのだけれど、「本当に、〈本当のわたし〉は存在しないのだろうか」
という思いもある。


誤解を恐れずにいえば、「何と絶望的で残酷な発想なのだ…」と感じるのだ。
今ここで、あれこれ考えたり感じたりしているこの小さなわたしは、
まったく自分の意志の入らないところで規定されているのだろうか。
何とさびしいことよ。*2


…単に弱いだけかもしれませんね。


それで、自我、個人、分人、何でもよいがそれらを想起する「こころ」の基を探ろうとこの本を手に取った。

心とは何か―心的現象論入門

心とは何か―心的現象論入門


困ったときの吉本さんです。ヒントがありました。


つまり、人間の心の世界というのは、何でしょうか。
それはたいへん難しいんですけど、何が人間の心の動きの基になってるのかといえば、


大別すれば二つあって、内臓の動きが心の世界を決めていく面がある。
しかし、もうひとつはそうじゃない。感覚器官、体壁から出ている神経に、脳につながっている筋肉とか神経とか、
そういう動物性の神経に動かされて、それが基になって起ってくる心の動きと、その二つがあるといえそうな感じがします。


その場合、内臓の動き自体が、即座に人間の心の動きだとは、なかなかいいにくいんです。
そういう心の動きの、内臓からくる心の動きと、感覚器官からくる心の動きとが表出(僕は表出という概念を使うわけですけど)されたものが、
人間の心の動きなんだとかんがえると、およその見当は違わないんじゃないかと思います。


1 「言葉以前の心について」 P.92 より抜粋

感情表現のことばには、生々しい肉体の動きを含んだものが多い。


「頭に血がのぼる」
「胸がつぶれる」
「のどから手がでる」


これらは単なる比喩でなく、実際の内臓の動きをなぞらえているというのだ。
実感としても大変腑に落ちる。
怒りは身体を熱くするし、
さらなる想定外の出来事は逆に「冷え」をもたらし、事象の受け入れがたさを実感させる。


それから、上著のなかで紹介されていた三木成夫さんの本。

ヒトのからだ―生物史的考察

ヒトのからだ―生物史的考察


吉本さんのいう「内臓の動きからくる心」「感覚器官や脳など、動物的器官が基になっている心」が、詳しく壮大に書かれている。


続きは次回へ。

*1:実教出版「新倫理資料」P.69より抜粋

*2:これは実存主義構造主義の論争でもあります。後ほど触れられれば。