静寂を待ちながら

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『My Lost City』は、君の足元に その3 〜ceroとわたしたちはみな踊る〜

ceroのニューアルバム「My Lost City」が織りなす気高い物語の、最後のはなしです。


前々回は、「ぼく」が洪水に押し流されて、「異界」の象徴である海へ、「のりもの」というパートナーと手を取ってこぎだし、
華と闇が同居する船上パーティーへ辿り着いたところを、


前回は、異界への恐れと憧憬に、震えて笑いつつも、元の国へ帰ろうと決意する「ぼく」の心の揺れと身体の動きについてはなしました。


繰り返しになりますが、この物語の概要を。


物語は水辺から始まる。
偽物の花を海に投げた「ぼく」は立ち上がると、鼻歌交じりに歩いていく。
たどり着いた先は享楽と空白のワイルドサイド、「My Lost City」だった。


踊り踊らされるうちに、雨が降り出し、やがて洪水となる。
「ぼく」は船に乗って海へこきだした。
船上では華やかなパーティーのなか、切り裂き魔が走る。
恐ろしさを断ち切ろうと笑い、「ぼく」は心をさまよわせる。
…思い出すあの街。


そして、「ぼく」は電車に乗って帰ることを決めた。
また、いつか来ようと。今度は本物の笑顔で。
青空が見えてきて、心は晴れ――


―――目覚めるとそこは、いつもの部屋だった。
何が変わったのか分からぬまま「ぼく」は再び歩き出した。


(まったくの個人的な解釈です。聴いた人の数だけストーリーがあるのは大前提です。)


最後の、この部分。


―――目覚めるとそこは、いつもの部屋だった。
何が変わったのか分からぬまま「ぼく」は再び歩き出した。

曲でいえば「わたしのすがた」にあたる。


この曲は、今までの幻想の世界と明らかに手触りが違う。
無機質なビートの上で、淡々と詞は語られる。


『あーなんか いっさいのがっさいが
元通りになったようなこの街


あーなんか ほんの1年くらい前は
なんつーか 眠り込んでいたんだな』


マイ・ロスト・シティー
あの日遠くから見ていた東京タワー


登り眺めたこの街に
違和感 なにもかわらんとこが
何より不気味で Feelin' Down』


これは、「ぼく」が夢想した「異界」での愉悦と恐怖の思い出を経ても、さほど変化のない自分に対する絶望やいら立ちともとれるし、
誰もが思い描くあの痛ましい出来事と、その後を暗喩しているようでもある。


皮肉な目線で街を眺めながらも、「ぼく」は再び歩き出す。


つまりは、こういうことだ。

しかし自然というのは、ある意味では不自然なものだ。
安らぎというのは、ある意味では威嚇的なものだ。その背反性を上手に受け入れるにはそれなりの準備と経験が必要なんだ。


だから僕らはとりあえず街に戻る。
社会と人々の営みの中に戻っていく。


海辺のカフカ〈上〉

海辺のカフカ〈上〉

第17章 P.324 より抜粋


自然を「異界」に置き換えると、まったくそのままだ。
そして、「街」は文字通りに読んでもいいのだけれど、この曲のタイトルに帰結される。


そう、「わたしのすがた」。


「My Lost City」は、「ぼく」そのものだった。


そういうわけで、物語のここへ戻る。


たどり着いた先は享楽と空白のワイルドサイド、「My Lost City」だった。


楽曲はもちろん、タイトルにもなっている「My Lost City」。


『享楽と空白のワイルドサイドへようこそ』


ラテンの原初的なリズムに乗せて、「ぼく」は最初の異界、「街」へと誘われる。


それから、


『放たれた家畜と エネルギー 
水蒸気爆発 戒厳令下の目論見』


『都市の悦びを支えるもののタカが今はずれた』


のように、あの事故を想起させる言葉もある。


この曲は、原発の20Km圏内から人がいなくなって、草や木が生い茂り、家畜が逃げ走りまわっているのをニュースで見た高城さんが、
その最悪な状態に恐れを抱きつつも、動物たちの目線で街を見たらどうなるんだろう、と思って書いたという。*1



荒野と化した街を駆け回る動物たち。
繰り返される、『ダンスをとめるな』というフレーズ。


わたしはこの話を思い出した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


民俗学者柳田國男は、弟が生まれたばかりの幼少の頃、母親の愛情が自分だけに注がれなくなったことを不満に思っていた。
彼は絵本を読みながら昼寝していたとき、神戸にまだ会ったことがない叔母さんがいるという妄想にとりつかれ、
目覚めると同時に、ぼんやりしたまま、実際には居ない叔母のところへ行こうと家を飛び出した。*2


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


この「もうろう状態」は入眠幻覚で、眠たくてぼうっとしているときに起きやすい。
吉本隆明さんは、これを「自分がじぶんにとりついた状態」と規定、
その原因は特定の気質の持ち主が「始原的なもの」を希求したときになることが多い、としている。*3


とりつく、とか荒野を動物が駆け回る、と言うと
何か、すさんだ世界が思い描かれてしまうかもしれない。


昨今妙な動きを見せている、風営法のことも幾分は想起させられるわけで。*4


でも、ここには神秘が内包されている。


「ぼく」は街そのものであり、動物たち。
ここに現れる姿、すべてだ。
自分を見失って街の空虚をさまよい、タカがはずれて狂騒する「ぼく」は、「始原的なるもの」を求めて踊り出す。


幼い日の柳田さんは、「母の愛」に渇望して走り出したが、
高城さんは、始原的なるものを「想像力」と規定した。


また、柳田さんは、己の妄想にとりつかれて勢いのまま脚を動かしたが、
高城さんは、その身体性に無自覚になるなよ、と繰り返し言い続けた。


人間を人間たらしめるものは想像力だ。それだけは失ってはならない。
どんなときでも、考えろ、イメージしろ
そして走れ。踊れ。とまるな。



この曲は、そんなことを語りかけているように思える。


わたしは、ある出来事についてはなしをしたい。


2011年10月17日、美学会全国大会最終日にある講演が物議をかもした。
当番校企画「たそがれフォーラム」内で、津上英輔(成城大学)さんが行った震災を絡めた講演が「不謹慎だ」と騒動になったのだ。


詳しくはこちら→美学会全国大会@東北大学の津上講演を巡る議論について一言


彼は、津波でさら地になった写真を示し、
「今回、この災害は多くの共同体から「人類共通の不幸」であるという共感を得た。
その結果、世界各国から救いの手が差し伸べられたのは素晴らしいことだ。


しかし、私たちの感性的体験はそれだけだっただろうか。
思考停止し、「感性の死」を余儀なくされ、全体主義に陥ってはいないか。


想像上他人の立場に立つことと、人類共同体の一員たるを自覚することとは、同じではない。
無論、道徳的判断力による人類の共感・共有概念は否定されるべきでないが、
それだけではなく、感性的判断力とよく合わせたものについて再考し、今一度、整理すべきである」


というような提言をした*5


写真を示したこともあり、「これを美的にとらえるというのか、何と不謹慎な」などと批判があったようだ。


デリケートな問題だし、うまく説明できないが
「これを見て、みな悲しめ」というのは違うよね、
何を思い感じるのも自由で、
人に、動物に、土地に、あますことなく想像力を働かせよ、
右に習わず、「ぼく」の想像に責任を持って行動せよ、
ということなのではないか、とわたしは思う。


ダンスをとめるな。


ceroは、音楽に乗せて、私たちを踊らせてくれる。
音楽がやんだ後、何を踊るか決めるのは「ぼく」だ。


ダンスをとめるな。


「ぼく」は「My Lost City」の源をみた、そして物語は見事に結実した。


11曲で編まれた壮大なストーリーは、人類の源泉から異界へトリップし、
わたしたちの足元へと帰ってきたのだった。


最後に。
「わたしのすがた」の一節。


シティ・ポップが鳴らすその空虚、
フィクションの在り方を変えてもいいだろ?』



わたしは、まだ分からない。*6
でも、フィッツジェラルドの「マイロストシティ」が、歴史の教科書よりも切実に在りし日のアメリカを教えてくれるように、
このアルバムは100年後、2012年の日本を伝えくれるだろう。


そして1000年後には、民話のように時を越えて語り継がれるストーリーになり得る力を秘めているのだ。
…………


高城さんは「小学校の頃からずっと物語を書きたいと思っていて、でもどうしても最後まで出来上がらなかった。『曲』という単位が僕の手におさまるものだった」と、さまざまなインタビューで語っています。*7


思うに、彼の本質は詩人、もっと言えば歌人です。
目線の変化や世界観の移り変わりにとてもスピード感があって、それは楽曲制作にも反映されています。



前作「WORLD RECORD」より。

21世紀の六畳一間に 気がつきゃ粘菌・黴類増える

WORLD RECORD

WORLD RECORD

「21世紀の日照りの都に雨が降る」より抜粋

21世紀という大きな時間軸から一転、六畳一間という狭い空間性へ視点が変わり、
粘菌・黴類という極小の世界に行く、
この様子をたった1行の中に、詩的に込められる人です。


高城さんがもし、平安時代の宮中に生まれていたなら、
歌人として人気を集め、光源氏のようなモテモテ生活を送っていたのではないでしょうか。


ceroの物語性をけん引する彼は、多くのカルチャーの膨大なアーカイブを軽々と、そして誠実にものにして、
詩篇を織物のように繋いだ躍動と瀟洒の世界を惜しげもなく見せてくれます。


権威には興味がないかもしれませんが、
ボブ・ディランノーベル文学賞にノミネートされるのであれば、
高城さんの詩人としての評価もそれに値するものであると、
大げさでなく、心から思っています。


…………


長い文章を、最後まで読んでいただいてありがとうごさいました。
衝動が止められませんでした。


高城さん、荒内さん、橋本さん、
こんなに素晴らしいアルバムをつくってくれて、本当に本当にありがとう。


それから「My Lost City」制作に関わったみなさまへ、
100万回の感謝とハグを。


何といっても、彼らはこれからの人たちで、
もう、それこそが希望です。


こんなの書いてしまって、各方面から嫌われてもしょうがないけど、
とにかく想像力に責任は持てたと言えるので、よしとします。

*1:特設サイト磯部涼さんによるインタビューより

*2:吉本隆明 「共同幻想論」 『憑人論』 P.67〜68 より抜粋

*3:共同幻想論」 『憑人論』 P.68〜69 より抜粋

*4:CDジャーナルのインタビューでも触れていました。

*5:引用元は、PDFで論旨が残っています。

*6:ceroは今まで、ある意味予言の書のような楽曲をたくさん作っている。都市生活者の想像力を突き詰めた結果の豊饒なのだろうけど、それだけではないような気がしてもいる。もっと深淵があるというか…。これからも考えつづけたい。

*7:前述の特設サイトやCDジャーナル、bounce 349や、その他たくさん