静寂を待ちながら

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『My Lost City』は、君の足元に その2 〜ceroをめぐる冒険〜

前エントリの続き、ceroの新作にして傑作「My Lost City」のはなしです。


このアルバム全体のストーリーを、再記します。

物語は水辺から始まる。
偽物の花を海に投げた「ぼく」は立ち上がると、鼻歌交じりに歩いていく。
たどり着いた先は享楽と空白のワイルドサイド、「My Lost City」だった。


踊り踊らされるうちに、雨が降り出し、やがて洪水となる。
「ぼく」は船に乗って海へこきだした。
船上では華やかなパーティーのなか、切り裂き魔が走る。
恐ろしさを断ち切ろうと笑い、「ぼく」は心をさまよわせる。
…思い出すあの街。


そして、「ぼく」は電車に乗って帰ることを決めた。
また、いつか来ようと。今度は本物の笑顔で。
青空が見えてきて、心は晴れ――


―――目覚めるとそこは、いつもの部屋だった。
何が変わったのか分からぬまま「ぼく」は再び歩き出した。


(まったくの個人的な解釈です。聴いた人の数だけストーリーがあるのは大前提です。)

このまえは、「異界」の象徴である海へ、「のりもの」というパートナーと手を取ってこぎだし、
華と闇が同居する船上パーティーへ辿り着いたところまではなしました。


シティポップに乗せて、人類の想像力の源泉のような景色と、2012年の東京の現在を同時に歌い上げるcero
それは、さらに続いていきます。


次に触れたいのは、こちら。


…………

恐ろしさを断ち切ろうと笑い、「ぼく」は心をさまよわせる。
…思い出すあの街。


そして、「ぼく」は電車に乗って帰ることを決めた。
また、いつか来ようと。今度は本物の笑顔で。
青空が見えてきて、心は晴れ――

曲でいえば、「スマイル」〜「Contemporary Tokyo Cruise」〜「roof」〜「さん!」の部分。


パーティーでは、享楽の背後に邪悪な切り裂き魔がうごめいていて、
「ぼく」は、昂揚と恐怖に翻弄された。


船はどんどん沖へ進み、逃げ場もない。
思わず「ぼく」は笑った。


差し挟まれる身体性。


人が笑うときには大きく2種類あって、
「快や満足で思わずこぼれる微笑み」のと
「不快や恐怖を和らげるための笑い」がある。*1



歌詞は、異界の悦楽と恐怖の中にある「ぼく」へ語りかけるように紡がれている。
『なんでもいいさ、笑え』と。


一方で、「のりもの」だったパートナーは「あなた」になり、
そのすがたの中に「ぼく」は
自分の街の幻影や、切り裂き魔の残像、そしてなにか希望のようなものを見ている。


愛と恐れ。
君はどちらに笑うのさ、とceroは柔らかな響きで問いかける。


大海原の「異界」からふっと目線が近くなり、
身体反応に意識が集中することで、温もりのある生きた感覚が呼び覚まされる。
この流れは質の高い小説のようで、本当に素晴らしい。


そして、
笑って、解きほぐされた身体と心で「ぼく」は、決めるのだ。
「My Lost City」へ帰ろうと。


異界でみた夢に後ろ髪をひかれつつも、じぶんの居場所はあそこにしかないと、気が付いたのかもしれない。
航海は徐々に終わりへと近づく。


「Contemporary Tokyo Cruise」で、「ぼく」の船が『幽霊船』になっているのも実に暗示的だ。
『あるはずのない東京の魔天楼』の幻想をみながらも、
『いかないで、光よ』と、
異界への憧憬を隠すことなく歌いあげる「ぼく」。


華やかできらきらした楽曲に、哀しみ、もっと言えば死の影を湛えた詩がすごく似合っている。


「Contemporary Tokyo Cruise」は荒内さんが作曲されているが、
彼の旋律のくせのようなものが、おそらくポップさの源のひとつになっている。
具体的に言うと装飾音*2と大きな旋回(アルペジオなど)が随所に差し挟まれ、
楽曲に優美さと気品を与えている。
これは多分彼の手のかたちや、動きが導き出しているものだと思う。
指がやや長く、でも手のひらとの均整はとれていて、指間や手首が柔らかいタイプなのではないだろうか。




余談だが私もすこし鍵盤をやるので、そこは経験的に何となく理解できるのだ。




そして、「のりもの」を電車に乗り換え、都市へ帰ってくる「ぼく」。
逡巡と後悔を胸に、電車は進んでいく。
ここでパートナーともお別れだ。


ひとりになった「ぼく」は陽光の下で思い出にひたる。


「さん!」の冒頭。

あー 私の青空を目に見えない戦闘機が
汚して消えた不可思議な朝だ

わたしは、田村隆一のある詩を思い出した。

空は
われわれの時代の漂流物でいっぱいだ
一羽の小鳥でさえ
暗黒の巣にかえっていくためには
われわれのにがい心を通らなければならない



田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)

田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)

詩集〈四千の日と夜〉 1 幻を見る人 より抜粋

このフレーズについて、吉本隆明さんは次のように評価している。

象徴詩人たちは、暗い気持ちを何かに託して表現してみせた。
鳥が悲しみの姿をしているとか、カラスが死を示しているとか。
田村さんは違う。
自分の外にあるもの(鳥)と内側にあるもの(にがい心)を完全に結び付けて表現する。
それがしかも、詩になっている。これは詩の象徴を次の段階に進めたということだ。


つまり、鳥を心の中の風物に変えてしまっている。
象徴や比喩として心に入れたものではない。本当に、空を飛ぶ鳥を心にいれてしまっているのだ。


(中略)


外にある物象を全部、心の中に入れないと言葉にできない。
これは詩人の全体像からすると、戦争というきわどい精神の体験からきていると思う。
戦争体験から、このようなことが精神の中に生まれたのだ。


詩の力 (新潮文庫)

詩の力 (新潮文庫)

P.28〜29 より抜粋

この歌詞にも、同じことが言える。
戦闘機は空を飛んでいるようで、本当は「ぼく」の心の中にある。


心を『汚した』戦闘機による『かなしみは消えない』。
『魂 散り散りに』なる。
『夢の中に せまるせまる 怪物たち』。


これらの言葉の向こうに見える、死の影。
けれども、「さん!」のサウンドは明るく多幸感に満ちている。


『さよなら 歌う鳥  いつでも 戻っておいで
魂 散り散りに ふたたび 手をとる日まで』


「スマイル」の、身体反応的な笑顔からうってかわって、
芯からの笑みがこぼれているような言葉だ。


帰ってきた「ぼく」にはもう、「My Lost City」で生きる覚悟があった。


「異界」で見た、めくるめく夢。
きっとあの娘にまた会える。
邪悪な切り裂き魔とも、幽霊船とも親しくなる日がくる。
死の影は、いつだって絶望とも希望ともつかず隣に佇んでいるけど、
いいよ、でもまたね、と微笑んで「ぼく」は戻る。


何と美しい鎮魂歌なのだろうと思う。


…………

今日はここまでです。
次回でラストの予定。


こんなの書いてたら、もうceroのライブに行けないと思いつつ(行くけど)、
自分の想像力に、最後まで責任を持ちます。

*1:参照:「人は何故笑うのか」、「笑えなくても笑ったほうがいい」、「シャクターの情動二要因理論と情動の形成機序

*2:1つの音を中心にして上行または下行する音形。彼は上行(ミファミ〜のような)が多いようだ。