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『My Lost City』は、君の足元に その1 〜ceroの音を聴け〜

2012年10月24日、ceroの2ndアルバム『My Lost City』がリリースされた。

My Lost City

My Lost City


既に1週間が経過し、その素晴らしさは多くの人に知れ渡った。
音楽的にも、文学的にも、圧倒的なクオリティを持つ作品だ。


「エキゾ」というテーマを掲げ、シティポップのなかに民族音楽の香りなどを巧みにコラージュして取り込む姿勢は前作「WOLRD RECORD」からあったが、
今作はさらにそれが深まり怒涛の進化を遂げている。
そのうえ通聴すると、まるですごみのある舞台や映画を見ているような、豊饒な物語性もある。


洗練されているのに気取りがなく、生々しさや体温、親密さも感じられて、
それはどうしてだろうと思う。
わたしは描かれた「物語」の向こうに、その深淵を探した。


恐るべき音楽であり、物語でもある『My Lost City』のはなしをします。


…………

表題の『My Lost City』は、スコット・フィッツジェラルドのエッセイでもある。

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)

マイ・ロスト・シティー (村上春樹翻訳ライブラリー)


ロスト・ジェネレーション」と呼ばれた1920年代のアメリカ。
筆者は、好況に湧くNYに憧れて移住、都市のスピード感や享楽に翻弄される。
やがて世界恐慌が訪れ、崩壊を目の当たりにして幻想から醒めた「わたし」は、「私の街を失った」と別れを告げて去った。


どうしても震災後の現在を思わせる引用だが、それ以前からこのアイデアを持っていたらしい。*1
ceroは、3.11後、やはり迷ったそうだが「じぶんたちの想像力に責任を持たなければならない」*2と覚悟し、このファンタジーを編む意思をを貫いた。


責任は完璧に果たされ、このアルバムには
2012年の東京の「今」の気分の正確な描写と、
たとえばギリシャ神話のように、はるか後世に読まれても共感を得るような普遍性が同居している。


大げさではなく、現在のミュージックシーンのみならず、音楽史文学史・文化史に残る作品だ。


11曲で紡がれるストーリーのかんたんなあらすじを。

物語は水辺から始まる。
偽物の花を海に投げた「ぼく」は立ち上がると、鼻歌交じりに歩いていく。
たどり着いた先は享楽と空白のワイルドサイド、「My Lost City」だった。


踊り踊らされるうちに、雨が降り出し、やがて洪水となる。
「ぼく」は船に乗って海へこきだした。
船上では華やかなパーティーのなか、切り裂き魔が走る。
恐ろしさを断ち切ろうと笑い、「ぼく」は心をさまよわせる。
…思い出すあの街。


そして、「ぼく」は電車に乗って帰ることを決めた。
また、いつか来ようと。今度は本物の笑顔で。
青空が見えてきて、心は晴れ――


―――目覚めるとそこは、いつもの部屋だった。
何が変わったのか分からぬまま「ぼく」は再び歩き出した。


(まったくの個人的な解釈です。聴いた人の数だけストーリーがあるのは大前提です。)

このなかで、わたしが胸打たれた箇所をいくつか。


まず、ひとつめ。

(踊り踊らされるうちに、)雨が降り出し、やがて洪水となる。
「ぼく」は船に乗って海へこきだした。
船上では華やかなパーティーのなか、切り裂き魔が走る。

曲でいえば、「cloud nine」〜「大洪水時代」〜「船上パーティー」の部分。


奔流に押し流されて進む先は海だ。
海は、古来より「異界」の象徴として表れることが多い。*3


浦島太郎のように。


海に囲まれた島国という地理的な側面が、その発想の源となった。


ceroは「失った我が街」を背に、天国とも地獄ともつかない異界へこぎ出した。


また、ceroの曲には「のりもの」がよく出てくる。
都市を走る電車は欠かせないし、このアルバムでは、船が重要な役割を果たしている。


「大洪水時代」はゆったりしていて、どこか官能的だ。
これは元ドラムの柳さんを引きとめるために書かれたと言う。*4
そのせいか、この物語の中では深い愛情をイメージさせる響きを持つ。


浦島太郎の原作と思われる「万葉集」や「丹後国風土記」によると、
亀は元は女性(海神の娘)だったらしい。


そこから類推した。
流れをゆくとき、船という「のりもの」に乗ること。
そして異界へ行くこと。
「のりもの」は、わたしの考えではよきパートナーのような存在だ。
恋人かもしれないし、仲間かもしれない。
この旅路で「ぼく」と異界のあいだをつなぐ象徴として「のりもの」があるように感じる。


流れは甘美に誘惑し、「のりもの」になって「ぼく」を異界へいざなう。


浦島太郎は彼女と夫婦になり、竜宮城、すなわち娘の家へ行く。
そこは「常世の国」で、この世ではなかった。
一度死に魅入られた彼は、今生へ帰還後、結果的に命を落とす。


『My Lost City』に戻ろう。
パートナーと手を取り合って進む先には、パーティーが待っていた。


会場に切り裂き魔がひそんでいるのはとても自然なことのように思える。
異界を駆け巡る、黒い存在。


それから、思い出したのは古事記
有名な「岩戸隠れ」の後、疲れてお腹がすいた神の話だ。

須佐男(スサノオ)は食物を穀神である大気都姫(オオゲツヒメ)に求めた。
そこで大気都姫は、鼻や口や尻から種々の味物をとりだして料理してあげると、須佐男はその様子を覗いてみて、
穢いことをして食わせると思って大気都姫を殺害してしまった。
殺された大気都姫の頭に蚕ができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳に粟ができ、鼻に小豆が、陰部に麦が、尻に大豆ができた。
神産巣日(カムムスビ)がこれをとって種にした。



吉本隆明共同幻想論」P.143より抜粋、参照:阿刀田高「私の古事記物語」P.24)

季節の巡り、収穫のサイクルを物語になぞらえている部分だ。
ひとつの死が新たな生の基盤になりうるという自然の摂理は、農耕民族の心理としてごく自然に内包されている。
女性には「分娩」という特性があるから、「たとえ」として選ばれたのだろう。


海という異界、ようするに死の国へ行った「ぼく」に船上パーティーが待っていたのが心情的に納得できるのは、
わたしたちの命にこのようなイメージが刷り込まれているせいなのかもしれない。


優れた想像、夢想は時空を超えてつながる。


また、「cloud nine」「大洪水時代」では、風や水の音が効果的に使われている。
多分、mix担当の橋本さんの偉大なる才能と、ceroの方針の両方なのだろうけど、
楽器の音、ボーカル、水音などすべての音色が同列の素材として扱われているように聴こえる。
それは厚みのある豊かな響きを作った。


オーケストレーションの魔術師」モーリス・ラヴェルを思わせるような。


だから、わたしたちを不可思議なファンタジーの世界へ魔法のように連れて行ってくれる。


相当耳が良くないとできない芸当だと思う。ただただすごい。

…………


今日はここまで。
結構書いた気がするけど、全然書き足りません。まだまだ旅は続きます。

続きはこつこつと更新しますね。

*1:http://www.kakubarhythm.com/special/mylostcity/より

*2:高城さんは、村上春樹海辺のカフカ」上巻(新潮文庫)P.277〜278より想起した。「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities――― まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。」

*3:折口信夫「古代研究1−祭りの発生」P.34〜42参照

*4:特設サイトより。結局脱退はまぬがれなかった。でも今でも親しいようです。現在売れっ子イラストレーターの柳さんは、このアルバムへ素晴らしいイラスト作品を提供しています。