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マツコ・デラックスは、妄想で語りかける・2

前回の記事の続きです。


何故、マツコさんが「女子テニスプレーヤー」や「最大8人の女性の人生」を、仔細に妄想できたのか。
ご本人は、おそらく文筆家としてフリーで活動を始めた際、仕事がほとんどなくて時間だけがあったから、と理由を語っていますが、それだけではないと感じます。



ほんまでっか?!TV」で共演している、池田清彦さんとの共著「マツ☆キヨ」より。

(池田さんの「性同一性障害」にまつわる話を受けて)

マツコ
「アタシは性同一性障害ではなくて、同性愛者で女装癖の持ち主なんだよね。
でも、たしかに、だからこそ厄介だと思ったことは大人になってからある。


たとえば、はるな愛ちゃんのような人だと、相手に伝わりやすいでしょ?
『アタシは心が女の子だったから、それに身体を合わせただけよ』という明快な説明がつく。


あるいは、同性愛だけなら『アタシは男なんだけど男が好きなだけなのよね』という話で済む。


ところが、アタシの場合は、そこに女装癖が加わることによって、
『おまえはどこのポジションなんだ?』と言われることになる。」


池田
「説明がややこしくなるんだ」


マツコ
「そうなの。で、それをいちいち説明しようとしても、デリケートな話になるでしょ。」

マツ☆キヨ

マツ☆キヨ

最終章「マイノリティの生きる道」P.168〜169より抜粋


本人いわく、「マイノリティ中のマイノリティ」という複雑なマツコさんの性のあり方は、
深い洞察力や温かい心情を形成する要因になっています。




少し飛んで、続きます。

マツコ
「ただ、何故自分がちょっとフェミニズム的なのかはよくわからなかったの。
でも、この間、ユーミン松任谷由美)に『身体も女になりたい人だったら、女になった時点で女への憧れは終わるでしょう』と言われて、腑に落ちたの。


アタシの場合、身体は男のままで、女装癖を持っているだけという、
いわゆるトランスヴェスタイト(異性装者)な状況では、、女の人に憧れる要素も一生残っているわけでしょう。


女ではないのに、女装をしているというところがフェミニズムにつながっているのかな、と思って、ちょっとわかった気がしたんだよね。


(中略)


アタシは、昔から、女性の職業にしか憧れなかったの。なりたいものが全部、女性の職業だった。
でも、アタシは男だからそういう職業には就けない。


となると、スーツを着てサラリーマンをやったりとか、
作業着を着て現場で働くのとか、そういうのがアタシに勤まるのかなという恐怖に近い気持ちはずっとあったのね。


結局、どうしていいかわからないままたどり着いているのが今のポジションなんだけど、


ユーミンに『アタシのこの現実逃避とも思えるような状況は何だろう?』と言ったときに、


『それはしょうがないよ。性同一性障害でもなく、女装癖のないゲイでもないんでしょ。
だったら一生、女というものに憧れを抱いて生きていくわけでしょ、マツコさんは』


というふうに言われて、ああ、なるほど、と思って。」


(中略)


池田
「なるほどね。
そういうふうに、自分が何を感じているかということを、うまく肯定的に考えていけると、いいよな。」


同著 「最終章 マイノリティの生きる道」P.170〜172 より抜粋

女性への憧れを持たざるを得ない、と見抜いたユーミンの観察眼には舌を巻きます。


また、妄想とは心的にいうと、「始原的なもの」、
乱暴に言うと、母親(あるいは家族)との関係や生育環境などがベースになりがちです。


すると、もうひとつの理由がここにある気がしました。


「魂の双子」こと、中村うさぎさん*1との共著「うさぎとマツコの往復書簡」より。

マツコ
「アタシにとって母親の存在は、何が起きようと、誰が現れようと、全く別の存在として君臨し続ける訳で、
こんな風にいうと、きっと日頃から密に母親を連絡を取り合い、
苦しい時は励まし、励まされの関係だと思われても当然よね。


だけど実際は、もうかれこれ三年は実家に帰ってないし、その三年前だって四時間の滞在で逃げるように帰ってきた。


(中略)


どんなことをして糧を得ているのかも、どんな風体で生きているのかも、男の人しか愛せないってことも何もかも、親と面と向かって話せないのよ、アンタはもう良く知っての通りね。


もしかしたら、アタシは母親にこそ真の理解者であって欲しいと願っているのかもしれない。
けれども現実は、四十歳にして生まれた一人っ子がゲイで、女装癖で、さらにそれだけでは飽き足らず、
人様の前でわざわざ「アタシはオカマよ!」って叫ぶようなことをしてるんだから、一方的に理解しろとは言えないわ。」

うさぎとマツコの往復書簡

うさぎとマツコの往復書簡

往復書簡 2010年1月31日 マツコ・デラックス P.121〜122 より抜粋

誰もが、「母」という存在にはある程度幻想を抱きますが、大人になれば自然に薄らいでいくものです。
しかし、マツコさんのそれは、今でも相当に大きいと、自ら独白しています。
会わずにいる分、尚更そんな気持ちでいるのかもしれません。


あくまで私の想像ですが、
ゲイに生まれたこと、母親への憧れ、お互いへの期待、それに対する強い罪悪感などの、相反する感情が複雑に絡み合って、
女装癖へつながったように感じます。
それは、「最大8人の(女性である)人生を妄想した」ことと密接にかかわりますし、
自分の性を通して、己の在り方や物書きとしての思考方法を基盤づけてもいます。
「光明がない」時分の話ですが、自らが己に向かって無意識に光をかざしていた行動、とも言えそうです。


全ては1本の糸で結ばれ、今の活躍へとつながっているのだと思います。


また、マツコさんは、御自身では「アタシは分かりやすくマイノリティだったから、考えやすかった」とおっしゃっています。
実際はそんなことはなく、妄想や現実の中で、絶えず己と向き合い、苦しみ、考えてきたからこその現在です。


それは、マイノリティであるかどうかというのは、実はあまり関係ないことです。
マツコさんのそれを過剰というのか、欠落というのかは分かりません。
多分、どちらも本当です。


ただ、彼女はその何だかわからないものを、妄想の中で見つめ続けました。
きっと、打ちのめされたり、のたうちまわったり、ときには喜びに震えたりしながら。


啓発本も悪くないかもしれません。
でも、マツコさんのように、それを読みたくなる自分について、
8人の人生を妄想するくらいに考え抜いたほうが、
はるかに望む未来へと進めるでしょう。


欠落や過剰がない人生なんて、ひとつもありません。


マツコ・デラックスさんは、魂のこもった妄想で、
私たちにそんなことを語りかけてくれたのかもしれない、と思いました。
大好きな回です。

*1:同日の放送内では、「自分と同じニオイがする」と感じた唯一の人と語っていました。「似ているけど、どうする?」と言いあったそうです。