静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

花の愛で方

先日、こんな催しに参加してきました。

こころの寄り道 辻説法



秋田光彦さん、玄侑宗久さん、小池龍之介さん、釈徹宗さんという仏教を軸足に世の中に発言し続ける4人が…

http://ja-jp.facebook.com/airgfm/posts/377803735619410

Ustream中継→ http://www.higan.net/topics/2012/07/higantv-0704.html
(アーカイブは無い模様)

私は、葬儀と法要は寺へ行き、初詣は神社で、クリスマスも楽しむ、という典型的な日本人です。
しかし、この4人の発言や著作には、よくはっとさせらたり、新たな視点をいただいたりしています。
そんな、自分にとっては「スターの集まり」とも言うべき垂涎のイベントへ、勇んで向かいました。


この中で最も有名なのは、芥川賞作家である玄侑さんでしょう。
福島在住ということもあり、震災後のこころのあり方について、さまざまな場で積極的に発言されているようです。

中陰の花 (文春文庫)

中陰の花 (文春文庫)



そして、元映画プロデューサーにして僧侶の秋田さん

アイコ十六歳 [DVD]

アイコ十六歳 [DVD]

(プロデューサー兼脚本家として参加)


パンクな生き方がよく知られている若き僧侶の小池さん

坊主失格

坊主失格



また、twitterでフォローさせていただいており、内田樹さんらとの共著などで親しみの深かった釈さんは、司会として参加されていました。

現代霊性論

現代霊性論

 



平日の16時開催という、私にとってはちょっと参加が難しい時間だったのですが、会場は満員で、立ち見も出るほどに盛況でした。
客層は、40代以降の女性グループ、年配の御夫婦、あるいは地元の若い僧侶などが中心だったように思います。



最後の、全員によるディスカッショントークによる冒頭での会話。

釈「これからは『茶飲み話』といった体で、皆さんに、本日の感想などを聞きたいと思います。

秋田さんは、御自身が(寺院内の)ホールなんかをプロディースされているということですが、この会場(ホテルの地下、オープンスペース)はいかがでしたか?」

秋田「いやー、やりずらかったです。(オープンな環境で)人が流れているからね」
釈「(笑)そんなこと言ったら、台無しじゃないですか!


では、小池さんは、今日の説法、いかがでしたか?」
小池「僕は、日ごろから音楽のCDとか本の感想を言うのが苦手で…」
釈「(笑)わかりました!


では、玄侑さん。
今まで、講演会等をたくさん行っておられると思いますが、
説法と講演で、何か変えている部分ってありますか?」
玄侑「いや…、どうでしょうねぇ」

釈「(笑)」

こんな、へそ曲がりな4人の話が面白くないはずがありません。



全体の流れは、



釈さんがまず、「震災と、その後の一連の出来事で『共振』し辛苦を味わった、心との向き合い方のヒントをつかんでください」と提示し、



秋田さんはご自身が住職をされている「檀家がおらず、NPO活動を積極的に行う」という『應典院』を紹介。



小池さんは、オウム真理教地下鉄サリン事件の時に高2だったとのこと。
その時代から蔓延していた「夢はあきらめなければ叶う」的なスイートな文言や風潮、個性的であれという社会風潮の正体、そして、それらに立ち向かうための仏教的なあり方を、御自身の人生経験を交えつつ説法されました。



玄侑さんは、福島での生活や震災の話を切り口にして、「こんにちは」という挨拶の向こうにある諸行無常の概念、そして忘れたくても忘れられない感情を抱えてしまう「人間」というものについて、冷静に、そして生々しく語られました。



こんなふうに書くと、何だか固いものと捉えさせてしまうかもしれません。
しかし、4人のお話のいずれも、深い信仰心と柔らかさに満ちていて、本当に面白かったです。
行ってよかったな、と心から思いました。



ただ、会場のお客さんたちの様子や反応には、若干の違和感を感じたのです。




普段、私がよくいくイベントは、音楽やお笑いのライブ、演劇、あるいは映画監督や俳優のトークショーなどです。
あまり「講演会」には出掛けず、今回のように「生きるヒント」と謳う催し物に親しんでいないせいだけなのかもしれません。




比喩ですが、




美しい森や花畑があるよ、行ってみようよ、と誘われたなら、
その場を存分に楽しみたいと思います。
花の匂いをかいだり、葉っぱをちょっと触ってみたり、
幹を歩く虫を眺めて、時にはつまんでみたりします。




思い切り空気を吸い込んで、空を眺めるでしょう。
近くにいる人と、お弁当を分け合って会話を交わすかもしれません。




ただ、今回の「近くにいる人たち」は、花や木々を遠くからじっと見ているだけで、
たまにひらひらとこぼれてくる花びらを、さっとつかんで自分のポケットにしまっている、
というような印象を受けました。



初めは年代の違いからくる感覚なのかな、と漠然と思っていました。



でも、突き詰めて考えてみると、
「双方向のやり取りを望む」のか、
「一方的に、非対称な享受を求めている」
という姿勢の違いが生んだ異和だったのではないか、という結論に至りました。




それは、ライブでステージへ向かって話しかけるということではありません。
階層を分けず、同じ地平で考え楽しむという気持ちで座っているだけでも、客席からある種の創造性が生まれてくるものです。



それらが希薄な会場に面食らい、その深い溝にショックを受けました。




でも、あちらからすれば、
花の匂いを嗅ぎにいくなんて図々しい、
差し出されたものだけ受け取りなさい、
と言われるのかもしれません。




まあ、自分の小ささに大いに原因があるのでしょうが、それだけではないとも思っています。
この違和については、今後のエントリでも考えていきます。




追記〉2012.7.6.
この文を書き上げたあと、何となくもやもやした気持ちが残りました。



それは、
「感じ方、受け止め方の相違を受容出来ない己こそが『深い溝』をこしらえていた」



からだったと思います。



まだまだ修行が足りないですね。



この世は天国ではなく、ノイズに溢れていますが、それらを楽しめるくらいになりたいものです。