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本のカフェ第9回「ムーミン+哲学」(『共同幻想論』を紹介しました)

こんにちは。先日、夏仕様のさっぱり髪になったA先輩(略称:ジェントルさん)にお会いしました。異動したてのほやほやだからか、ちょっとお疲れ気味だったなあ。が、わたくし、そんなジェントルさんに思いっきり人生相談をぶちまけ、慰め、励ましてもらっちゃいました。何という空気の読めなさよ。おかげですっかり元気になりました。ジェントルさん、あの時はほんとーうにありがとうございました。今度はあたいがあんたのグチをきいちゃるぜよ!…すんませんえらそうにごめんなさい。先輩に礼を失したところで本題へ。

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先日、「本のカフェ第9回『ムーミン+哲学』」に参加させていただきました。場所はCafe Espuisse(カフェ・エスキス)にて。主宰の木村さんによる詳細レポはこちらです。参加者は8名。今回は主宰であり司会の木村さんによる「ムーミン谷の彗星」の紹介と、自分が木村さんとの対談形式で「共同幻想論」を読み解く…、という今までとはちょっと趣向を変えたものでした。わたしにとってはなかなかのおそろしい企画。ただ、参加者のみなさんがとってもあったかくて救われました。密で知的な、しかし固すぎない空気感が心地よかったなあ。年齢層・男女比ともに結構ちらばっていたのもよかったのかも。そうそう、自己紹介では「好きなキャラクターを教えてね」との提案が!「スナフキン」「マリー(だったかな、ディズニーの白猫キャラ)」「キン肉マン」「ピーターラビット」「お茶の水博士」「おねがい!サミアどん」「おもいつかない」という感じのメンバー構成でしたよ。ちなみに私はキャラが出てこなかったので「ももクロ」と答えました。安定のももかなこ推しでございます。

では初めの紹介本へ。

新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)

新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)

ムーミンシリーズの処女作にして異作。いつものほのぼの物語ではなく、「ムーミン谷に彗星が落ちてくる」ことで大騒ぎする村人たちの話です。第2次世界大戦後に発表されたこともあり、不安な気持ちが随所にのぞくものの、哲学的な挿話やセリフが出てきたり、かと思うと優しく包み込むようなキャラでなごんだり、と物語はゆるやかに上下降しながら進んでいきます。紹介者さんは「キャラクターごとの台詞がとても魅力的、これは翻訳の下村隆一さんの技量によるところが大きい」と話されていました。訳者ってある意味では「第2の作者」といっても過言ではないのかもしれないですよね。また参加者さんからは「ムーミンには、必ず相手のことを我が身に置き換えて考えるヒューマニズムがあり、そこにユーモアが含まれているのも素敵」との意見も。うーん、ムーミンから教わることは多そうだ。しっかり読んで、いい大人になりたいと思います。

そしてこちら。

吉本隆明さんの代表作。「国家とは共同の幻想である」というマルクスの言葉をインスピレーションにして、人間の「幻想領域」、端的に言えば「想像力の根源と種類」を読み解いた、戦後最大の「知の巨人」による思想書です。といっても基本的に吉本さんは詩人であり、文学者であることを矜持としているので、ある種の文学作品としても読めると思います。

哲学書をがっつり紹介するって、自分にとってはものすごくチャレンジングなことで、全体的にいっぱいいっぱいでした。そんな私が選んだのは「漫談」スタイル。もう勢いで押しちゃえ、と「てやんでいべらぼうめ」な江戸っ子口調で進めていきました。ああ、扇子持っていけばよかったかもなあ…。まあそんな、あつくるしくもおっちょこちょいな自分の話に、木村さんは学術的な見地からあれこれとサポートしてくださいました。彼の的確な助け船がなければ、この企画は成り立たなかったと思います。ほんとうに大感謝!です。
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≪ぼくらの共同幻想論
               
まず冒頭では、「自己幻想」「対幻想」「共同幻想」という3つのワードについて簡単に説明。それぞれ順番に「言葉以前の心象風景、芸術文化の源」、「1対1の男女のあいだに生まれる心の動き、家族をつくる源」「3人以上のヒトが集まってできる幻想領域、国家へ発展」って感じでしょうか。吉本さんの本にはこういう、造語がすっごく多いんです。やっぱり「俺は詩人だ、文学者だ」という気持ちが大きいのだろうか。余談ですが特に「対幻想」という概念は発表当時、ずいぶん衝撃をあたえたと聞きます。
あと大切なポイントは「自己幻想と共同幻想は逆立する」こと。ヒトは誰もがいびつで、欠如と過剰のパッチワークでできてますが、共同幻想は基本、それとぴったり一致することはないのですよ。膨れ上がった観念は、「時には個人を圧殺しかねない」ものにさえなりうるのだ、と吉本さんは語っています。


そしていよいよ本論へ。
わたしは≪ひとりの心の動きがやがて国家をつくっていくまで≫とタイトルを付けました。では、怒涛の如くいきますよっ!長いよ!

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まず、「自己幻想が共同幻想へ発展していくさま」についてです。いちばん原初的な「共同幻想」って、民話なんですよね。吉本さんも遠野物語なんかをいっぱい引用しています。で、それを「共同体論」にもじるために、わたしがこしらえた話がこれ。

むかーし昔、ある男が夜、山道を歩いていると、恐ろしい形相の山男にあいました。恐ろしさのあまり腰をぬかしそうになりつつも、這々の体で村へ帰り、興奮気味に皆へ話しました。
すると、他の村人たちも口々に「山男、俺も見たよ」とか、「俺は女にかどわかされそうに…」などと告白し出したのです。うわあ、こわいなあ、やっぱりあすこにはなにかいるんだ、今度からは山へ入る時は一緒に行こうか、などと男たちは不安そうに言い合いました。すると長老が一言。「夜中に一人で山へ入るな。これはムラの掟じゃ」。

個々の人間が見た…というか、まあ「幻覚体験」が暗黙のルールである「黙契(山へ入る時は一緒に…)」になり、やがて「禁制(ムラの掟)」になる」。ぜーんぶ幻想領域の話なのに、それが人間の行動を規定し、ちいさな村落共同体を支える礎になるっていうのがおもしろいですよね。で、そのうえ、「私は見た、昨夜山に降り立つ神の姿を。あれは山神様なのじゃ」とか言いだす人が出てくるわけですよ、必ず。これは「巫女」と呼ばれ、のちに共同体を大きくする中で力を発揮する人なのです。吉本さんは「共同幻想を対幻想のように扱える」と定義しています。要は空想を擬人化できる人ってことだ。

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また、人が集うと恋が生まれ、夫婦、そして家族が作られます。そこにあるのは「対幻想」だ。互いを意識し合った、1対1の男女。「夫婦」の間に生まれる感情は、はじめはふたりだけのものだったけれど、やがて古代人の日々の営みであった「農耕」に重ね合わせられていきます。子を成し育てる自分らと、種をまき収穫する畑仕事。何か似てるな、って思うのも無理はないだろう。それは「農耕祭儀」へ発展します。五穀豊穣を願う祭りって、特に古くから伝わるものは性的描写を含むみたいなものが多いんですよね。みうらじゅんの「とんまつり」でもたくさん紹介されていますので、気になる方はググってみてくださいな。それに祭りって基本、共同体の要になるしね。で、そこへ兄弟姉妹による空間性、親子による時間制(世襲)が加わり、共同体はどんどんでっかくなっていくのです。特に兄弟姉妹は重要で、前段で出てきた「巫女」が姉にあたります。性的関係を捨象した対幻想である姉弟をつなぐのは「契り」、つまりおまじない的な約束なのです。古事記にもそれを示す挿話が出てくる。んで、呪術の部分を姉がにない、弟が実務、政治を担当していくという流れが生まれます。農耕作業におきかえると「田んぼで泥まみれになる弟へ、うまい飯とお守りを差し入れる姉」って感じですかね。これら3つ、「夫婦・兄弟姉妹・親子」の対幻想が混合し、祭祀となり、国をつくるための基礎となる幻想領域をつくったのです。

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そして人が増えて発展していく国家には必ず、2つの痛みが生まれます。ひとつは「前時代を否定して進むことにたいする良心の呵責」。まあどうしても、時代が変わると新しいルールや規律が必要になってくるわけですが、それって親からうけついだ共同体をある意味で否定する作業でもある訳です。これは無意識のうちに棘となって心に刺さります。
それともうひとつは「自然状態からどんどん離れていく不安」です。吉本さんは「人間は自然の一部であるのに対他的な関係に入り込んでしか生存が保てない」と記しています。共同体のルールに従うって、ある側面では自分を殺すことなのだ。自己幻想どおりにのびのびしているだけだと都市国家にはいられない。そういう≪異和≫が「原罪」の感情を生みだし、やがて「ルールを犯した者へは罰を」という考えへ発展していきました。初期日本国家では「天つ罪(農耕法規)」と「国つ罪(婚姻法規、近親相姦禁止をベースとする)」の、二つの法があったらしい。でもこれ、出てくる順番がどうもあやしいんですよね。吉本さんも「『天つ罪』→『国つ罪』の順で古事記にも出てきてるけど、おそらく『黙契』としては『国つ罪』が先にあったはずだ」って言ってます。ちなみに、この矛盾はキリスト教の中にもでてくるらしいです。参加者の方から教えていただきました。そうそう、宗教も幻想領域ですものね。
また、古事記では日本人の先祖はいちおう渡来人ってことになっているけれども、史実を見ると何だかいまいちはっきりしない。日本の成立を文献からよみとくと、こんなあやふやさがいくつも散見しています。吉本さんは「幾重にも重層化し、混血して存在した日本民族の複雑さがここに見えるね」、と語っています。何でこんなあいまいなことしか残されていないのか。ここからは吉本さんの他の文献や何かを読んだ私の推論ですけど、極東の島国で、海に囲まれて逃げ場のないところで、たくさんの民族が集まってうまくやっていくための知恵なのかなって。元々住んでいた人たちも、あとから来た人たちも、「みんな仲間じゃん」ってことにして、共同体を壊さないようにしたのではないかと思います。そんなふうに私は話を結びました。

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途中、しゃべりすぎて若干貧血気味になりながらも、みなさまのやさしい眼差しに助けられ、つたないながら精いっぱいの「ぼくらの共同幻想論」を終えました。告知記事でも書きましたが、わたしはたんなる素人で、哲学好きの吉本隆明さんのいちファンでしかない。だからこれはしょうもない誤読なのかもしれないし、もしかすると彼の功績を汚しているかもしれないなって気持ちもすこしあります。それでも、多くの人に助けられ支えられて、素晴らしい経験が積めたことを嬉しく、誇りに思っています。特に「本のカフェ」主宰の木村さんには本当にほんとうに、申し訳ないくらいにお世話になりました。心の底から!感謝しています。もう足を向けては寝られませんです。
また、今回はディープで密な回だったし、平日夜開催だし、場所も試される大地だしで、希望しても来られない人もいた、とあちこちで拝見しました。恥ずかしいながらも嬉しかったです。わたし自身も、この話を聞いてほしい、と思った友人知人がいっぱいいました。だから、その場にいた人だけではなく、いなかった人たちにも感謝を捧げます(タモリイズム)。ほんとうに、ありがとうございました。
そして何よりも!吉本隆明さんへ。こんなに素晴らしい思想を残して下さった在野の「知の巨人」と同じ国に生まれ、同じ時代を生きられたことを心底幸せに思います。彼と彼の御家族へ100万回の感謝を捧げたいと思います。




普段じぶんに関わる写真ってあんまりのせないのですが、記念なので恥をさらします。数年前に趣味で勉強してて、付箋を貼りすぎて膨れ上がった共同幻想論です。隣のは普通バージョン。

それからtwitterにあげましたが、紹介の折に作成したレジュメも公開しておきますねー。


「本のカフェ」、次回ムーミン企画ですって。みなさまにお会いできるのを楽しみにしてます。美味しいパンとオリーブオイルをみんなで堪能しましょう!