静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

にっき

こんにちは。もう今年も半分が過ぎようとしているんですね。信じられん。体感的にはまだ3月末とか四月の頭くらいです。このまま行くと30年後、「あれ、わたし今日ご飯たべてないよね…」とか言う人になりそうで怖い。


さて、たまにはのんびりと、日々の徒然なんか書いてみます。
先日、いつも陽気に飲んでいるA先輩(略称:パイセン)が、珍しく落ち込んでいるようなので「どうしたんすか?」と聞くと、「仕事チームが解散の危機なのよ…」とくらーい顔。どうも、転勤やらなんやらで、職場のメンバーが様変わりしてしまうらしい。まだ、決定ではないし、可能性は五分五分なんだけどねー、と一緒に来ていた美人上司は寂しそうに言いつつグレープフルーツジュースをあおり(彼女は酒が飲めない)、その隣の後輩君も、どうなるんですかね、なんて静かにつぶやいていました。
「今のみんなと別れたくないよねぇ…」と口々に言い合う3人。仕事上だけではなく、人間として、友人として離れてしまうのが悲しい、せつないと語り、次々とグラスを干していた。そんな様子を見て、正直、すごくうらやましかった。

わたしは人と別れるのが本当にへたくそだ。その瞬間をできるだけ先伸ばしたくて、無駄にねばってしまう。先日のアメトーーク、「学生時代の友達とコンビ組んでる芸人(2014年5月29日放送、リンクはお笑いナタリーの該当記事)」で、ココリコが中学時代、帰り道にお互いの姿が見えなくなるまで「バイバーイ!」「またね!」などと大声で声を掛けあう、という仲良し場面を再現していたけれども、ものすごくよく分かる。飲み会だとか、何かの集まりはほぼ最後までいちゃうしな。多分、子ども時代の度重なる転校経験がトラウマになってるんだと思う。じゃあさよなら、でぱっと次の展開にいかなきゃなんないことが、当時の自分にはけっこう辛かったのです。
だから、こうやってすこしずつ別れを惜しんで、心の準備をしていく彼らを大人だな、いいな、と思う。

話は逸れるが、子どもの頃、私はえらく寝つきが悪かった。毎日、1時間くらいは「寝れねえよう…」とごろごろしていたのではなかろうか。その時間はだいたい、非生産的な、しょうもない妄想タイムにあてていたのだが、たまに「もし、このまま死んじゃったら…」「死ぬってどういうことなんだろう」と、死について、いっちょ前に考えることもあった。でも、その時の心の動きを今振り返ってみると、「私がいなくなっても世界は勝手に回っていくんだよなあ。ああ、仲間はずれはいやだよう、かなしいよう」なんです。浅い…。自分ではすごく哲学的な命題に取り組んでいる気持ちだったのに。そんな訳で、結構長いこと「死」はお布団妄想の先発メンバー(中6日)だったのだけれど、これを読んで、ちょっとだけ落ち着いたのだった。

時をさまようタック (児童図書館・文学の部屋)

時をさまようタック (児童図書館・文学の部屋)

不老不死の家族の話。「この世界に別れを告げられない」とはどういうことなのか。それがおぼろげながらも分かった気がした。言いかえれば、死ぬって自然なことなんだな、って。
この世は諸行無常の生々流転で、どうしたって変化は免れず、でも何かに愛着を持ってしまったり、逆に憎んでしまったりすると、移りゆく折にさまざまな感情が湧いてしまう。喜怒哀楽に振り回されず、いつもフラットに、心穏やかに過ごせたらどんなにか楽だろう。年を重ね、だいぶ人生になれてきたつもりでも、まだ全然うまく出来ません。パイセンたちみたいに、すこしずつ、ゆるやかに、という処し方と、次の世界に希望をもっていくことしか、抵抗する術はないように思う。まあ、言うは易く行うは難しだけれども、自分の、生まれたときからリレーのバトンみたいに細胞たちが繋げてくれたこの身体を信じて、やっていくしかないんだろうな。

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あのときパイセンから「お前、ブログやってるだろ!何か書いて俺らを励ませ!」って命令受けたんで、こんな感じにしてみました。いかがっすかね。じゃ、お叱りはまた飲み屋で。