静寂を待ちながら

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ありがとう「あまちゃん」

2013年上半期のNHK連続テレビ小説あまちゃん」、本日大団円の最終回でした。

半年間、登場人物や設定、そして小ネタに対して感情移入に次ぐ感情移入を繰り返しながら楽しみました。
製作スタッフ、出演者のみなさまには感謝に次ぐ感謝を捧げます。


備忘録がわりに、物語の構造や感じたことなんかを書いておきます。忘れたくないので。


…………

まず、ストーリーの根幹を担っていた、北三陸のマーメイドたちについて。どうでもいいですけど初代とか3代目とか聞くとどうしても「スケバン刑事」が脳裏をちらつきます(3代目麻宮サキ…)。トシガバレル。


ヒロインの「3代目マーメイド」ことアキちゃん。物語内での役割はいわゆる「まれびと」です。

〈まれびと〉

折口信夫の用語。海の彼方の異郷(常世)から来訪して、人々に幸せを与えて去る神。

*異郷:沖縄等で「ニライカナイ」と呼称される南方海洋と、人々の生きる世界の「外部」という二つの意味が混ざったもの。


「生命と創造の根源は、この世界を延長していったところには見いだされず、この世と存在様式を異とする他界にこそ見出される、という思想。(中略)その異世界が「まれびと」をとおしてこの世界にときおり現出してくる。そこに芸能と文学が生まれた…(後略)」



参照・出典:中沢新一 著「古代から来た未来人 折口信夫ちくまプリマー新書)」P.30〜31
及び 折口信夫 著 「古代研究 1 祭りの発生」P.16〜42

海の向こうから…ではなく、北鉄に乗ってやってきたアキちゃん。天真爛漫でアイデアマン、ときには猪突猛進っぷりが迷惑がられながらも「アキちゃんなら仕方ない」と思わせ、最終的には「同じ阿呆なら踊らにゃ損」と周囲を巻き込み、祭りを発生させるヒロインです。

三陸でも、東京…もとい芸能界でも、彼女は「まれびと」でした。初めはよそ者なのに気が付くと中心人物になり、ここが重要ですが最後には必ず、「去る」。
三陸に活気をもたらして「去り」、芸能界でも無垢と失礼を行き来しながら暴れまわって「去り」、再び舞い戻った「地元」では復興に尽力し、そして今日をもって私たちの生活から「去る」。たくさんの思い出を残して。



…………

2代目・春子さんを軸にした場合は、「自己回帰」の物語になります。
彼女は親や故郷を否定し、逃げるようにして上京します。「アイドルになりたい」と奮闘するも、思わぬ事態によって夢は破れました。
傷を背負い過去を失った春子さんは、25年の歳月を経て、娘と共にルーツを取り戻す旅に出ます。
母への誤解、それから自分を「影」に追いやったと思い込んでいた鈴鹿ひろ美への誤解は、娘との二人三脚による体当たり行動で全て氷解しました。
芸能界、それから彼女を語るキーワードは「光と影」です。ネットでもそこを言及している人が多かったように感じます。
アメ女で代役は「シャドウ」と呼ばれました。また虚構を生きる鈴鹿さんは黒い私服を好み、対峙する際の春子さんは白ジャケットを身にまといます。そういえばユイちゃんもある意味で「シャドウ」だった時期がありましたよね。


私が思いだしたのはこれ。

ドイツの天文学者オルパースは、「この宇宙には太陽級の星がごろごろしているのに、夜は何故暗いのか?宇宙全体が始終、白昼の明るさでないのはどうしてか?」というパラドクスをうちたてました。
宇宙とはつまり、はてしなく深い青色をたたえた巨大な夜のことです。
この地上における、光に満ちた午後の時間帯も、宇宙という広大な夜空の中では、きわめてローカルな事象であり、私たちが勝手に「昼」という別称で呼んでいる、「日当たりの良い夜」のことです。


吉本ばなな「白川夜船」(福武文庫) 解説/原マスミ P.221 より抜粋*1

昼も夜も、そして光も影も、忠兵衛さんにいわせれば「同じ地球だべ」。
当たり前だけど、生きるどんな場面にだって光と影の両方がある。奈落も多少のヤンキー生活にも、虚構を生きる女優と夫のプロデューサ人生にも、社長とタクシー運転手のリアルライフにも。
もっといえば、ただ事実があるだけなのです。明度を決めるのは本人の心。
そんなこんなを分かりやすく、時には「分かる奴だけ分かればいい」精神で描いたクドカンと、井上剛さん率いる演出陣、本当に「かっけー!」。何度言ってもいい足りないくらいにかっけー。でした。


特に鈴鹿さんリサイタルのシーンは、文字通り号泣でした。あの清らかな薬師丸ひろ子さんの歌声の説得力ったらなかった。


…………
「3代前からマーメイド 親譲りのマーメイド」


初代マーメイドこと天野夏さんを中心に据えると、全く正統な「アイドル譚」となるのであります。
生まれ落ちた北三陸で、花形職業・海女を始めた夏さん。19歳で当地を訪れた「まれびと」の橋幸夫さんと「いつでも夢を」をデュエットしたことで、彼女は一躍地元のアイドルになり、注目を集めます。
海女の季節になると、北三陸では毎年かの歌が街に響き皆が口ずさむ。いつでも夏さんは真ん中で、憧れと責任を悠々と受け止めていました。後年彼女は海女クラブの会長に就任し、「夏ばっぱ」と呼ばれるようになります。
ただ「マーメイド」として地域を背負い、その役割を十全にまっとうしていくことは、一方で家族を犠牲にすることでもありました。娘の春子さんは高校を中退して家出、25年もの間音信不通になります。
生涯を由緒正しきアイドルとして、そして地に足のついたリアルライフを送ってきた夏さんの中にも、「シャドウ」はあったわけです。「御しんぱいねぐ」と笑いながらも。
まさに「地元アイドルの大河ドラマ」と呼ぶにふさわしい人生です。


ところで、「マーメイドたち」を見守ってきた琥珀の勉さんこと小田勉さんは秘かなキーマンでした。何せ8500万年から眠っている「ただの樹液」こと琥珀を磨き上げて、世に送りだす人です。「磨き人」ことマネージャーの水口さんが弟子になるのも理にかなっています。
彼は夏さんがアイドルになる瞬間を目撃し、大漁旗を振る春子のお見送りシーンをワカメと共に胸にしまいこみ、シャドウ時代のユイちゃんには粉チーズをかけてあげるなどして、マーメイドたちの光と影を支えました。



物語は、そんな3人のヒロインたちの現在と過去を行き来しながら編まれていきました。


…………
その他、後半では「あまちゃん」「プロちゃん」問題も俎上に浮かびました。


アキちゃんは「成長しない」主人公です。
「身体は勝手に成長するけど、人間はつねに成長しなくてはならないものなのか?それは違うんでねえか。おらはプロにはなれねえ、あまちゃんといわれても仕方ないべ」とはっきり言います。


私はこの番組を思い出しました。
7年ごとの記録」(Eテレ


元々はBBCの企画だったようです。13人のさまざまな人の生涯を8歳から7年おきに取材し、追いかけるドキュメンタリー番組。今回イギリス版は56歳編、そして旧ソ連版と日本版は28歳編が放送されました。
見ていてびっくりしました。みんな、8歳から変わらないんです。
もちろん、進学や留学、引越し、就職、結婚や出産、あるいは離婚や事故、孫の誕生などなど、環境の変化は少なからず各人に影響を与えます。でも子どもの頃の面影って必ず残っている。容姿というよりも言動に。ビックマウスの人は状況に合わせつつもずっとビックマウスだし、ポジティブを心がける人は何があってもポジティブだった(反対も)。あと地域や家庭もすごい重要で、56歳になっても出自は何らかの形で表れる。本人は「成長した」とか言うけど、第3者からすると差異はほどんどないんです。人って生まれた年と場所が全てなのかも、とすら思いましたよ。言いすぎですけどね。
何か「出来事」や「経験」があってわたしは成長しましたよ、っていう考え方は幻想なのかもしれません。ただ適応だけがあるのだ。


一方で、鈴鹿さんは春子さんに「プロだ」と言わしめます。虚構の世界を住処とした彼女は、自分自身のリアルライフをある意味で捨てました。虚構とリアルが最も近づいたあのリサイタルの場面でも、その生き様をまっとうします。意志を貫きながらも夢は壊さない。それが女優・鈴鹿ひろ美です。
彼女の芯にあるのは「虚構に身を捧げる」という強い意志の力です。「あまちゃん」はもしかしたら彼女の奥にも眠っているのかも知れません。それを見せない、切り捨てる強さが鈴鹿ひろ美の真骨頂です。


あまちゃん」の愛すべき登場人物たちは、そのどちらの精神も持っているような気がします。
大吉さんをはじめとする「欲の皮の突っ張った大人たち」は、震災後、その欲をエネルギーに変えて復興に取り組みます。家族の諸問題を経て最も成長したと思われるヒロシも、アキちゃんの恋愛や栗原ちゃんの結婚話を聞くとどんよりと凹みます。
そしてユイちゃん。
「ミス北鉄」からのスカウト、父の病気による上京の断念とヤンキー化。スナックでのリハビリ後には震災。潮騒のメモリーズ結成から復活までの道のりは、彼女にとって「長い3年」だった。しかしなんだかんだで腹黒ユイちゃんは健在でした。


変化と不変。


最終回、アキとユイがトンネルをはしゃぎつつ駆け抜けていくシーンがあります。
過去「あまちゃん」の中でトンネルは何度か登場しました。
ユイとアキはそれぞれトンネルに向かって「アイドルになりたい」と叫びます。震災編の第1回目では、その向こうに残酷な景色が広がり「被災」の象徴となりました。


わたしはこのエントリを読んではっとしたのです。

宮藤官九郎『あまちゃん』第133話ー青春ゾンビ


古今東西の物語の中で「トンネル」は、こちらとあちらを繋ぐ「異界への入り口」として描かれがちということを、的確に説明しています。他には橋なんかもそうですよね。
アイドルの世界を「あっち側」だと思っていた二人。震災という「非日常」もトンネルの向こう側からやってきました。


ただ、「まれびと」が訪れたり「異界」に行ったりしても失われない何かがあったのは事実です。


川端康成は「雪国」を「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」と始めました。
対して、宮藤官九郎さんは「あまちゃん」を「北鉄の長いトンネルを抜けてもそこは北三陸だった。」と記して筆を置きました。
アキの手にはミサンガが2本残っています。そして生活は続くのです。テーマソングや潮騒のメモリーを口ずさみながら私たちは茶の間に戻ります。


フィクションの役割として、これ以上のものがあろうかと。


…………
感動で再び号泣しそうなのでこの辺でお開きに致します。
ご静聴ありがとうございました。
そして、何度でもいいますが、能年さんはじめ出演者の皆さま、それから「あまちゃん」を作った宮藤さん・井上さん・大友さんを中心とする制作者のみなさん、また関わった全ての皆さん、
こんなに楽しいドラマを本当に本当にありがとうございました。

*1:1995年5月25日発行の第14刷より