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〈原点〉 その1 宮崎駿「風立ちぬ」〜カルチャーガジェット

宮崎駿監督の最新作「風立ちぬ」、見どころ満載で本当に面白かったです。ようやく感想がまとまったので書いてみます。いわゆる「ネタバレ」ありです。


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風立ちぬ」といえば、日本でいえば堀辰夫の小説を指しますが、この映画では、彼と同時代を生きた航空機設計技師・堀越二郎さんの半生を描いています。


縦糸は後のゼロ戦の原型となった「九試単座戦闘機」開発に至る道のりですが、二郎の「夢の世界」の住人・カプローニおじさんとのやり取りや、結核の菜穂子との恋が横糸として絡められた、ファンタジックなお話です。


原作は、監督が「道楽で」描いていた、模型雑誌「モデルグラフィックス」の連載漫画だそうです。
監督ご自身の言葉を借りれば、この作品はまったくの「道楽作品」です。宮崎さんが愛するさまざまな「文化」の芳香が漂っています。
まるで「草枕」「虞美人草」など、初期の夏目漱石のような優雅な雰囲気です。

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モテキ」監督・大根仁さんは同作品内に出てくる音楽・漫画・ファッションなどを「サブカル・ガジェット」と銘打ちました。
踏襲するなら、「風立ちぬ」は「カルチャー・ガジェット」の宝庫です。
風立ちぬ」に関していえば、表層では主人公の出自と心象風景を描写します。しかし、宮崎さん自身の「自己表出」を巧妙に隠す〈目くらまし〉としても機能しているのがポイントです。「道楽」ってのはそういうもんです。
そして、ガジェットのほとんどには「死の影」が潜んでいます。以下、気が付いたものを挙げていきます。
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まず何といっても、飛行機の詳細な描写。もうミリタリーマニア・宮崎駿の本領発揮です。カプローニさんも実在の人物で、夢の場面に出てくる複葉機も全て実際にあった機体なんですね。余談ですが私は「沈頭鋲(ちんとうびょう)」って初めて知りました。


実在の堀越さんは、「七試」・「九試」・「十二試(ゼロ戦)」開発の設計主任者でした。ちなみに「八試」は劇中にも登場した本庄さんが担当したらしい。そしてご自身が一番思い入れのある飛行機が、「九試」なのだそうです。


堀越さんが残した文献を少し読みましたが、その向こうに見える人柄は、劇中人物の二郎とは若干違う印象です。これは宮崎さん自身も「二郎の内面は僕の妄想」とおっしゃっているので間違いない。*1
私は、実際の堀越さんは有能な技術者であると同時に、よい組織人でもあったとお見受けしました。リーダーシップのある人。
少なくとも、サバの骨から新しい飛行機の羽を夢想し、周りの声が聞こえなくなるほど夢中にアイデアを書きだす…、みたいなロマンチスト的要素は、あそこまではない。劇中の「本庄」のような、冷静な部分も結構あったように思う。ただ、それだとアニメの主人公にはなりにくいのかもしれませんね。


話がそれましたが、これらの史実を宮崎さんは「カルチャーガジェット」として扱い、脚色して含みを持たせています。史実で言えば、関東大震災のシーンもありましたね。波打つ大地の描写は圧巻でした。


また、ドイツへ視察に行った折、二郎と本庄が夜の散歩をしていると、シューベルト「冬の旅」が民家から聴こえてきます。第6曲目「Wasserflut(あふれる水流)」です。


「冬の旅」はざっくりいうと、何かの職人(原詩でも明かされていない)である主人公が、その親方の娘に失恋し、住み込みしていた親方の家を去り冬の街をさまようという、ものすごく暗い全24曲です。シューベルトは夭折する直前にこの連作歌曲集を書き上げました。
第6曲目「Wasserflut」は、「僕の目からこぼれた涙は、雪の中に落ちた。ああ雪よ、やがて溶けたなら、川の流れに乗ってあの人の家へまで行っておくれ」という内容です。
映画「風立ちぬ」における「涙」とは何か。そして「あの人」とは誰なのか。おそらく多重な意味を孕んでいるはずです。


この詩を書いたのは、19世紀ドイツ人のミュラー。彼はギリシャ文化への造詣が深いことで知られており、そのため、この「川」はギリシャ神話に出てくる「冥界」のひとつめの川なのでは、という見方もあります。詩集のベースに、何となくギリシャ神話の雰囲気があるんですよね。


それから、七試のテストに失敗した後、二郎は休暇を取って軽井沢を訪れ、そこでドイツ人のカストルプと出会います。
トーマス・マン魔の山」の主人公、ハンス・カストルプの名前がそのまま使われているのです。


魔の山」はいわゆる結核文学のひとつです。堀辰夫の「風立ちぬ」もそうですね。
スイスの山奥にあるサナトリウムにお見舞いがてら静養に行った主人公カストルプが、自身も結核を患い入院。そこで恋や哲学、政治思想などに触れることで精神的に成長していく、という「ドイツ教養小説」。どーん。初めは3週間の予定だったのが、徐々に「時の止まった〈魔の山〉」の魅力にとり憑かれ、気が付くと7年もの歳月をそこで過ごします。


軽井沢…、もとい「魔の山」では、伴侶となる菜穂子との出逢いもあります。これは、堀辰夫の小説「菜穂子」のヒロインの名前から取ったそうです。サナトリウムを抜け出して二郎に会いに来るエピソードも、その中から引用されています。
また、丘の上で絵を描く彼女の姿は、クロード・モネの「散歩、日傘をさす女」の構図に似ています。

ちなみにモデルはモネの一人目の妻・カミーユ。32歳の若さで病死しています。


そして二郎が彼女にプロポーズする直前に、カストルプがピアノで弾き語ったのは「Das gibt's nur einmal」。映画「会議は踊る」の劇中歌です。


これは「ウィーン会議」の陰で密やかに育まれた、ロシア皇帝・アレクサンドル1世とウィーンの町娘・クリステルとの恋物語を描いたお話です。クリステルが宮廷から招待され、馬車で向かう場面で「ただ一度だけ」が歌われます。
身分違いで、初めから叶わぬ恋だと知りつつも、彼女はうきうきと馬車に乗り込みます。そして、「ただ一度だけ、夢かもしれない。明日にはもう消え去っているかもしれない。でも花の盛りはただ一度だけ。」と陽気に笑い、行くのです。


クリステルとは違い、二郎と菜穂子の思いは「魔の山」で成就します。が、その後、病が二人を分かちます。
ラストは夢の場面で、カプローニと共に草原へ訪れた菜穂子は、二郎に「生きて」と微笑みかけます。


風立ちぬ、いざ生きめやも」とは、元はポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の後半に出てくるフレーズです。
ヴァレリーは、南仏の、刺すような陽光の下にある「海辺の墓地」の坂を登りつつ「死」への瞑想にふけります。しかし最終的には「生きること」を試みようと決意します。


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カルチャーガジェットは、劇中ではあまり説明されず、ある意味では観客を突き放しにかかります。「わかる奴だけ、わかればいい」というのが一貫した姿勢です。
そして、全てに「死の影」が佇んでいます。まあ、二郎が知っているであろう、19世紀的な世界のものの大半にはそういった傾向がある、と言ってしまえばそれまでなのかもしれません。


ガジェットをこれだけちりばめた理由はただひとつ、この作品が「宮崎駿そのもの」を表しているからです。
自分を出そうと思ったけど直接的なのは恥ずかしいから…、ということです。要は照れたんですよ。


そこらへんの詳細は次回に。

*1:でも「実像とは違うかもしれないですけど、精神においてはこれが堀越二郎ではないかと思っています」とパンフレットで語っています。勝気だなあ。