肯定の人・2〜いとうせいこう「想像ラジオ」
前回の続き、いとうせいこうさんの新作「想像ラジオ」にまつわる話です。
これは、2011年3月11日の東日本大震災とその周辺を描いた小説ですが、
記録的な価値のみならず、思想的な価値も大変に高い作品です。余談ですが私は中表紙の濃紺の深さが好きです。
信仰や立場、それから生死などのあらゆる境界を溶かし、全てを受け入れ肯定すること。
この物語の中ではそれが鮮やかに、軽やかに表現されていました。
…………
そしてですね、前エントリでもご紹介した「ボクらの時代」のなかに、人生を「肯定」ベースで生きるせいこうさんの、もう圧巻の「肯定話」があったのです。
升野
「せいこうさん、一回、変な、野犬の霊に取り憑かれたんですよ。」
せいこう
「ははは、中型犬の悪霊にな。」
小林
「(固まり目を丸くする)えっ?」
升野
「それが一番せいこうさんを表しているエピソードで。」
小林
「日曜の朝から何を言っているの…」
せいこう
「ガッツーン、ってきたのよ。」
升野
「取り憑かれた、って言うんですよ。」
せいこう
「ガツン、ってきて、急に歩けなくなっちゃっててさ。そしたら、収録に行くところ全部、複数の収録のところで霊感が強いとかいう人、スタッフの人に帰り際に、
『ちょっと、犬が憑いているんで気を付けてください』って別々のところで言われたの。」
小林
「えええー?!」
せいこう
「怖いでしょ。」
升野
「取り合えずお祓いにいこうって、普通は思うでしょ。でも違うんです。
(せいこうさんは)『飼う』、と。」
小林、手を叩いて爆笑。
升野
「これで飼い慣らせるようになりたいと。」
せいこう
「『悪霊の共棲』とはどうなんだと。でももう1年ぐらい、本当にひどかったもん。」
升野
「体の調子、最悪ですよ。」
せいこう
「いつもだるいし、腰痛いし。」
升野
「俺らも気ぃ遣って、その分のスペースあけたりして。『犬がいるんだよここに』、っていうから。」
小林、爆笑。
せいこう
「それはもう命がけの俺の抵抗だったね。ベタなことに対する。」
升野
「だって本当に寝てて気づかないうちにふらっと外に出て、ご飯食べに行ったりだとかして。」
せいこう
「うーっ、って唸ったりしてるらしいの。完全に俺取り憑かれていたの。でもそれ越えたらね、今、もう忠犬なんですよ。」
升野
「今もいるんです。」
小林
「え、いるの?」
せいこう
「います、います。忠犬だから。嫌な奴がいたら『やってこい』と。ガブ!だから。」
小林
「今、腰の調子が悪いとかはないんですか?」
せいこう
「…、基本的にあの時ほどはひどくない。」
升野
「悪いは悪いんですね(笑)。」
小林
「祓えよーー!!!」
せいこう
「駅で女子高生たちを見て、俺こう杖ついてさ。
もし俺が祓ってさ、年端もいかない、人生のやり過ごし方も知らない人にこんな怖いものが行って、乗り越えられるかなって。
『俺、できるかもしれない』って思っちゃったの。」
小林
「引きうけよう、って。」
せいこう
「そうそう、面白いからさ。」
升野
「それこそ、普通だったらこんなのだめだって、否定して。(せいこうさんは)祓うよりも肯定して、って。」
せいこう
「『肯定』の力ですよ。」
小林
「ごめん、俺それちょっと違う話のような気がする(笑)。」
升野
「いやいや究極ですよ。せいこうさんの性格の。(何でも)面白がること。」
せいこう
「きつかったなー、あれ。(遠い目)」
何というエピソードなのでしょうか。もう訳が分かりません。
混乱した私の頭の中では、小林さんが思わず叫んだ「はらえよー!」が妙に響きましたよ。あの名作コント「たかしと父さん」のセリフ、「かまえよー!」をつい思いだしましたよ。
閑話休題。
ひとつずつ検証していくとえらいことになりそうなので、肝の部分だけ触れますが、
「ベタなことに対する命がけの抵抗」とは何ぞや、と。
「魂魄この世に留まりて 恨みはらさでおくべきか」という、
歌舞伎などによく出てくるベタなフレーズが小説でも紹介されていましたが、
感情としての「怨恨」と「賞賛」って実は根が同じなんですよね。一面的な見方の結果、っていう。
いいとか悪いとかじゃなくて、それは生物の本性です。しょうがない。少なくとも全てに適応できる身体なんて幻想です。
大げさな話をすれば、地球の変化、温暖化やら氷河期がくるやらっていう予測のあれこれに人類はどうやら耐えられなさそうだと昨今騒がれていますが、それは他の生物にとってはパラダイスかもしれない。もしくは適応できる新種が誕生して、新たな地球史の始まりになるかもしれませんしね。自分の利益が相手の得とは限らない。
しかしですよ、恨みはらさで…という相手の「利」が自分のダメージになるのにも関わらず、「想像」という肯定力を武器に「まあまあまあ」なんてなだめて共棲しようとする。面白いとまで言って。
なんという懐の深さよ。
私は霊がどうのこうの、という話は基本的に「それが『存在する』と思いたがる人の心の動きって面白いよね」という立場をとっていますが、何だかもうどうでもよくなって参りました。
危機的状況におかれると身体は縮こまり、つい自分のことばかり、自分を肯定することばかりに言動が終始しがちになる。
でも、私たちには想像力がある。それさえあれば自分の五感で享受可能なもの以上の、つまり身体という限界を超えられるのだ、ということを改めて考えさせられました。
心は自由なのだ。
では、最後にこの小説に、そしてせいこうさんに感謝をこめて1曲。
想ー像ーラジオー。