静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

逆・マッチ売りの少女

このところだいぶ昼が長くなってきた。春が近い。
もちろんまだまだ寒いのだけれど、日差しがちょっとずつ明るくなってきたのでうきうきしている。


北国に暮らす身としては、やっぱり春は暴力的に待ち遠しいものだ。


しかしそういいながら、わたしは冬が嫌いじゃない。
じゃんじゃん雪が降ってうず高い山になり、窓の外の風景がほとんど真っ白になってくると、
どこか世界から隔離され、一人だけの国に閉じ込められてしまったかのような、
甘美な意味での孤独に包まれる。
寝心地の良い羽布団のなかでごろごろしているみたいに。



そりゃ暮らしは大変だ。
わたしは昔、日本有数の豪雪地帯にすんでいた。もう大変だった。
一日に何度雪かきをしても間に合わないほどの降雪は人びとを疲弊させるし、
玄関が凍ったり雪に覆われたりして開かなくなり、窓から外に出るしかないときもある。
歩けば足元はずぼずぼと景気よくうまり、
まつげや肌など、外気にふれているあらゆるところの水分は容赦なく凍る。
寒さはまるで見えない蜘蛛の糸のようにわたしたちに巻き付き、身体の自由を奪っていく。


けれども部屋にかえってじっくりと温まれば、さっきまでのことはすっかり忘れてしまうのだ。
温度差でみるみるうちに結露していく窓をふきつつ、頼もしい火力のストーブの前に陣取って半そででアイスやビールなんかを食すのは実に至福なひとときである。


そうして落ち着いてきてから、静かに本を読んだり音楽を聴いたりしてぼうっと過ごすのも趣ある時間だ。
冬に馴染むと、どことなく心がしんとする。
そしていつもよりも純度の高い安らぎを得られる気がする。透徹した感覚。


わたしはこの情景をひそかに「逆・マッチ売りの少女」と呼んでいる。
イメージとしての視点は屋外と屋内の両方を平等にみつめている。それはけっして優越感にひたっているわけではなくて、厳しい経験も含めた幸福感という意味なのだ。
北欧はサウナや家具なんかが有名だけれど、
それはやっぱりギャップをしみじみ味わったり、部屋の中で過ごす時間を楽しんだりしているからなのだと思う。


嵐のなかの静寂や抑制のなかのため息って、けっこう幸せなのかもしれない。


お笑いも人生も、緊張と弛緩が醍醐味なのだ。


なんか、こういう場面をかっこうよく描いた小説がたしかあった気がするのだけれど全然思い出せないのだ。誰か知っていたら教えて下さい(他力本願)。


そして、なんだかんだいっても春が嬉しいのだ。
そもそもこの文章には、もうすぐ訪れる光と暖かさを確信した上で、目の前の雪と寒さを強引に過去のものとして懐かしんでいるという矛盾が発生しているのであった。


…………


そんなふうに、生活の中で自然と対峙して抵抗し、でも受容するしかない、身体感覚を考えにいれつつ、みたいなことについてこのごろずっと考えています。
ある程度まとまったら連続記事にしてアップしていく予定ですが、
それまでは日々のつれづれや、見たもの・聴いたものについてのはなしを気楽にしていこうと思っています。


あと、オークラさんのはなしも、近々ちょっとだけするかもしれません。舞台が近づいているので。