静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

詠み人しらずの2012年

年の瀬だ。


わたしにとって、今年は吉本隆明さんとceroの年だった。


3月16日、吉本さんが亡くなった。
ご高齢だったから、なんとなくずっと覚悟はしていたものの、
実際に亡くなってしまったときは本当にショックだった。*1

軍国少年だったこと、いじめっ子だったこと。*2
自分をまったくごまかさず、正直に語る気取りのない言葉はとても身にしみ、
折に触れて彼の著作をひも解いた。
また、糸井重里さんとの交流から、「ほぼ日刊イトイ新聞」では近年、対談形式の素晴らしい特集がたくさん組まれている。それも常々拝見していた。


「市井の人」という立場を生涯貫いた彼の思想はいつだって、冷徹さと熱い血肉がきっちり入っている。


サインを求められた折、色紙に書いていた言葉。

ほんとうの考えと
嘘の考えを分けることができたら、
その実験の方法さえ決まれば

宮沢賢治 より)



(ほぼ日 吉本隆明のふたつの目 009「ほんとうの考えと嘘の考え」より引用、写真も。


もともとは、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の一節だ。
主人公のジョバンニは親友カンパネルラと天をかける列車に乗って、不思議な旅をする。
さあ、もうすぐ終点というとき、ふいにカンパネルラがいなくなった。


カンパネルラとずっと一緒に行くんだ、と子どもらしくだだをこねるジョバンニの前へ、
黒い帽子の博士があらわれ、静かに語り出す。

おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一心に勉強しなくちゃならない。
おまえは科学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。
いまはだれだってそれを疑やしない。実験してみると本当にそうなんだから。


けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。
みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。


それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。
けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じようになる。


銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

銀河鉄道の夜 P.361より 抜粋

東工大出身で理系の感覚を持っていた吉本さんは、科学者であり文学者でもあった宮沢賢治の姿とじぶんを重ねあわせた。


信仰、科学、文学、あるいは人間の営み、
すべてに対して同等のまなざしと思考をたむける賢治に、
若き日の吉本さんは憧れ、そして自身の人生を「実験」に捧げたのだ。


信じられないくらいに深く、すごみがあり透明で、厳しさと慈愛をはらんだ彼の思想の原点だ。


わたしは、何か大きな出来事があると必ず、「吉本さんはどんなふうに考えているのだろう」と、その発言を待つのが習慣になっていた。


それがもうないのだ。
たまらなかった。


残されたものはこれから、
じぶんで「ほんとうの考えと嘘の考え」を見つけなくてはならない。
そう思ったわたしは改めて彼の著作を手に取り、何度も何度も読み返した。

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)

改訂新版 共同幻想論 (角川ソフィア文庫)


もっとも多く読んだのは「共同幻想論」だ。
履歴をたぐり、極限まで解体するという吉本さんの思考に寄り添うことで、
考える喜びや豊かさを知った。


無論、現代の研究と照らし合わせると既に古くなっている部分もある。
しかし、それが問題にならないくらい「ほんとうの考えと嘘の考えを見分けるやり方」について、惜しみなく書かれている。
迷ったときはここへ戻ってくればいい、
いつなんどきでも「考える喜び」に身をゆだねようと決めた。

…………


それから、cero
今年リリースされた「My Lost City」は豊饒な物語性をもったアルバムだ。

My Lost City

My Lost City

ストーリーのアイデアは震災前からあたためていたにもかかわらず、それらを想起させるような側面をはらんでいた。
悩んだ彼らはしかし、この言葉に背を押された。

すべては想像力の問題なのだ。
僕らの責任は想像力の中から始まる。
イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities――― まさにそのとおり。

逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

P.277〜278 より抜粋


「考える喜び」にすこし酔っていたわたしははっとした。
以前の短いエントリでも書いたが、「想像力に責任を持て」というフレーズはぐさりと胸に突き刺さった。
小心者で、市井の人間であることを言い訳にしがちなおのれの愚かさをつきつけられた気がしたのだ。


ceroは、だからといって肩に力を入れるわけでもなく、あくまで朗らかに、さわやかに歌う。
その美しさ、しなやかさが眩しかった。


しかし過去のじぶんと今は地続きだ。
それも受け止めたうえで、想像力に責任を持とうと誓った。


もちろん、ここであげた偉大な人たちとじぶんを同じ俎上で扱おうとは微塵も思わないけれど、
それでもだ。


…………

ところで吉本さんもceroも、引用のことばを提示している。
吉本さんは宮沢賢治のフレーズをアレンジしているし、
cero村上春樹さんの言葉を挙げているが、これはもともとアイルランドの詩人、ウィリアム・バトラー・イェーツによる「Responsibilities(責任)」(1914年)からの引用だ。*3


数々の人の手を経て「詠み人しらず」になったことば。
もっといえば、ことばですらないかもしれない。ゆたかな抽象、沈黙のなかにうかぶ概念。


共同幻想とか、集合的無意識とかそういったもの。
そこに漂う孤独や透徹は、わたしをいつでも強く惹きつける。


来年もそのなかに耽溺したい。
胸打たれたものを星座のようにつなぎ合わせ、これからも楽しみたい。


今年はそんな感じでした。


いつも読んで下さるあなたに、100万回の抱擁と感謝を捧げます。
相変わらずとっ散らかっていますが、来年もよろしくお願い致します。

*1:こんなエントリも書いています。亡くなってから3週間経ってやっと筆を取ったという時間差が、ショックを物語っていますね。

*2:いじめていた少年から下駄で頭を殴られるという逆襲にあい、反省して止めたそうです。著作「僕ならこう考える」に人間味あるエピソードが収録されています。

*3:同アルバム特設サイト、インタビュー前編 注13より。