静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

吉本隆明は、河本さんへ何と言葉をかけるだろう。

もう、鎮静化してきましたが、先日こんなニュースがありましたね。

次長課長・河本、騒動を謝罪
http://tv.jp.msn.com/columns/wideshow/article.aspx?articleid=1074631

さまざまな反応を散見しましたが、琴線に触れたこちらのブログを紹介させていただきます。

河本準一氏叩きで見失われる本当の問題

http://www.kotono8.com/2012/05/25komotojunichi.html


絵文録ことのは」 5月26日より

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彼や彼の親族は法を犯しているわけでもないですし、本当に気の毒というより仕方ない出来事でした。



一連の騒動から感じたことはたくさんあるのですが、うまく言葉にできなくて、吉本隆明さんの著作の力を借りることに。

貧困と思想

貧困と思想



2008年に出版されたものですが、現代の「予言の書」といってもよいくらい、示唆に満ちています。



その中の一節に目がとまりました。

もし、もっといい方向を探し出そうとするなら、変化の兆候を見極めることが重要です。

いいかげんに考えていると、見誤ります。


言葉や文学についてもそうですし、現実社会に対してもそうです。


(『「蟹工船」と新貧困社会』 P.21 より)

もしかすると、ここが「変化の兆候」のひとつといえるのではないか。
そんな風に感じています。


私は、政治や経済にかんしては門外漢の、いち市民にすぎません。




しかし、思想的に、今はどのような状況にあるのかを、自分なりにとらえておきたいと思って、じっくりと考えてみました。
………………………




バブルがはじけた後の90年代経済不況は「失われた10年」と呼称されますが、それは時を経て「失われた20年」と改称されるほど、長引いています。




そんな中、2000年代の日本にはいくつかのブームが広がりました。




エンターテインメントの世界では「ネタ番組」「お笑い」ブーム。
ハイカルチャーでは「蟹工船」「カラマーゾフの兄弟」ブーム。
女性たちを中心とした、「スピリチュアル」「占い」ブーム。



これらに共通しているのは、新たな「共同幻想」の獲得ではないか、と思います。




村上龍は、2000年に「希望の国エクソダス」の中で、反乱を起こした少年にこんな言葉を言わせています」

「この国にはなんでもある。本当にいろいろなものがあります。
だが、希望だけがない」

希望の国のエクソダス (文春文庫)

希望の国のエクソダス (文春文庫)

(文春文庫版:P.314 より)

右肩上がりの時代が終わり、それは本当のところ、歴史的に見ても特異な状況だったのですが、それを認識できず、認められない人々はただただ、つぎはぎでその場をしのいできました。




新しい時代への、明確なビジョンが見えない社会への絶望感の増大。
閉塞感は、多くの人たちの心を、空想や妄想の世界へ、過剰なまでに躍らせました。




これらの正体は、過去の人類が育んできた、さまざまな共同体が崩壊し、行き場を失った人間による、現在のあたらしい「共同幻想」なのでは、と感じています。また、インターネットによるつながりの増幅もここに属します。




国家を「共同幻想」である、と読み説いた吉本さんですが、この3つはそれをさらに超えた幻想であり、「ハイ・イメージ論」で語られたことに近いように思います。

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論〈1〉 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論2 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論2 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)

ハイ・イメージ論3 (ちくま学芸文庫)


1・2巻(現在は文庫にて1〜3巻)が1989〜90年に上梓されています。



吉本さんは「高度情報化社会には、楽天的な未来があるのか、悲観的な未来があるのか分からないが、確実に死へ向かってるように思う」と論じています。




2000年代の一連のブームは、彼岸の光景だったのでしょうか。




また、河本さんは過去に、著作やさまざまなテレビ番組などで、「幼少期の貧しい暮らしが僕を笑いの世界へと導いた。それは、芸の厳しい世界を生き延びる糧にもなった」と語っています。

一人二役

一人二役

芸人、あるいはミュージシャンや小説家、芸術家などの表現者に多くみられる人生です。



彼らは身を削り、自らの魂をえぐり、表現へと転化します。



余談ですが、ヒトは種として弱いから、生き延びるために妄想する力を獲得したという説もあるそうです。




しかし、何かを表したいと思えば思うほど、容赦ない己との対峙が必須です。
生き延びるために空想で救われ、自らもそこへ飛び込むと、その先には、むしろ自然状態よりも厳しく現実へ向き合うことを要求される、地獄の苦しみが待っています。
皮肉なものです。




その苛酷ををくぐり抜け、公衆の面前に立ち、ある意味、日本を無形に支えてきた「お笑い芸人」をやり玉に挙げるような、今回のやり方は、いまのこの国を、何か象徴的に表しているように思えてなりません。



あまりに乱暴に、共同体というものを考えているのではないでしょうか。
法とモラルの混同、家族やパートナーなどの解体の無視。
あまり、扇情的な言葉は好きでないですが、思想的に、国が、責任を放棄した瞬間といってもよいかもしれません。



そもそも、この騒動の問題の根は、戦後60余年、企業が担ってきたセーフティネットが崩壊し、それに依存していた国があたふたしていることです。




これからは、あたらしいセーフティネットを複数、模索することしか、我が身を守る方法はないように思います。




何かを考えることは、たんに自分がからっぽで無知という、どうしようもない現実を見せられるだけで、悲しくやりきれません。




しかし、考えるしかない。そう思っています。