静寂を待ちながら

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生きる

五月病の季節ですね。


先日、目にしたニュース。

鉄道自殺「晴れの日」に多発…昼は飛び込み、夜は線路侵入


大阪府周辺で平成22年までの5年間に発生した鉄道による自殺について大阪府人権協会(大阪市港区)が調査したところ、昼間はホームからの飛び込みが、夜間は線路や踏み切りへの侵入が多い−といった傾向が明らかになった。悪天候より晴れの日に自殺が多いことも判明。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120509-00000123-san-soci より

陽光の向こう側の景色に、胸が詰まる。
不謹慎にも「天気が良いから、死にに行こう」という言葉が浮かび、己の腐った心根に絶望した。


冬は鬱になる人が多い半面*1、自殺は減るという。
メランコリーな心情に冬の寂しさが合致し、行動力が減るせいらしい。


雪、北風、枯れ木、分厚いコート、
などが、
引き裂かれている何かを優しく包むのだ。


この国で、自殺が最も多いのは3月〜5月だ。*2
年度末での経済的・社会的苦悩、そして合格・栄転など華やかな局面に浮かれる人々との対峙が、ぎりぎりの淵にいた人を追い込む。


昔から「年末年始は自殺者が増える」というが、これも同じ理屈だ。


石川啄木の有名な句「友がみな我よりえらく見ゆる日よ…」を思い出す。
強い光や芽吹きは美しいが、一方で影を助長するのかと思うと、何とも言えない。
自分など、ただただ何もなさずのうのうと生きているに過ぎないのでなおのこと。


同じ日にもう一つ、気になった話題。

脳科学で解明、人が自分について語りたがるわけ─氾濫するSNS


自分について話すことが、食べ物やお金で感じるのと同じ「喜びの感覚」を脳のなかに呼び起こすことが、7日発表された研究で明らかになった。個人的な会話であっても、フェイスブックツイッターといったソーシャルメディアでの発信であっても、それは変わらない。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120509-00000005-wsj-int より


実感としても、とても腑に落ちる。
「自分語り」というと陳腐に聞こえるが、これらは偉大な表現者の手によって昇華すると、魅力的な小説や音楽になるものだ。
市井のすべてのものに内在する欲求だからこそ、音楽やアートは紀元前から廃れず、ヒトの心をとらえて離さないのだろう。


喜ぶために、語ればよいのだ。
内容の明暗なんて気にせず。


すべての生きとし生けるものは、ただそこにあるだけで何かを表現している。
だが、それを美しいとか、素敵だとか思って、別の何かに起こすのは、ヒト特有の行動だ。


中沢新一さんの過去の講演から。

「新しい私たちの先祖である新人にはあって、ネアンデルタールのような旧人にはないものというのはあります。
それは芸術と象徴的な思考方法の、この二つのようなのです。」


2005年10月24日「中洲産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 presents『はじめての中沢新一。』アースダイバーから芸術人類学へ。」より
http://www.1101.com/nakazawa/2006-01-18.html

また、デザイナーの山中俊治さんの、過去のツイートも。

@Yam_eye
自然の中に美を見いだす能力を、ヒトが進化の過程で生存のために獲得したのだとすれば、「自然界にある美は全て機能美である」という仮説も成り立つかもしれない。むしろヒトがつくったものの中にこそ、機能と無関係な純粋な美があり得ると思います。 @g_d_c


表現の根について考えるのは、とても興味深い。


2足歩行を手に入れた代わりに、種として、哺乳類として弱さを抱える人類。
我々の祖先が厳しい自然を生き抜くため養った本能は、「空想」「妄想」だった。


花や草木の中に美を見出すとか、鳥の声に音楽を感じるという「心」は、生存本能だったのだ。
ある種の快楽といってもよい。
しかし、それが命を絶つ術にもなるのだから、皮肉な話である。


のっぴきならない状況で揺らいでしまうのは、決して責めるべき思考ではないと思う。
ただ「つらい、死にたい」という叫びも千回続ければ悦楽でその言葉が自身を生かす。


啄木の短歌の続きは、

「花を買い来て 妻と親しむ」。


自然を愛で、模倣し、悦びの中に耽溺するのもまた人生だ。



「生まれてすいません!太宰治です!(バッファロー吾郎A先生のギャグより)」