静寂を待ちながら

お笑い、テレビ、ラジオ、読書

評論とは何か、考えている。

先日、有吉弘行さん( @ariyoshihiroiki)と中山涙(死んだ目でダブルピース、 @shindame)さんのやり取りが話題になった。

3/20深夜 有吉弘行×中山涙のやり取り

R-1ぐらんぷり2012の予選に出場した中山涙(@shindame 死んだ目でダブルピース)氏。
(その経緯 http://d.hatena.ne.jp/karatedou/20120305#p1) 
来年度も参加を表明した。しかし・・・
by Tarumizizou
http://togetter.com/li/276778

リプライの中にお二人の信念が見え隠れし、とてもエキサイティングだった。

拝読してからずっと、「評論とは何か」について考えていた。

ちなみに、歴史的に、演者と評論が分離したのは、ごく最近のことだと思う。
活版印刷などの技術の進歩で、各種印刷物や新聞が発行され始めてから、「評論」が職業として成立した。

例えばクラシック音楽の世界だと、評論が活発化したのはここ200年くらいのことで、ドイツロマン派作曲家のロベルト・シューマンが初発と言われている。(現在「クラシック」と位置づけられる音楽は、大体16世紀くらいからなので、その歴史は400年くらいでしょうか)
彼主宰の「新音楽時報(現在も刊行)」では、当時新進気鋭の若手ピアニストで作曲家だったショパンを紹介し、幅広く知らしめた。

新音楽時報(しんおんがくじほう、Die Neue Zeitschrift für Musik)
ドイツで最も権威ある音楽雑誌。略称NZM。1834年4月3日にライプツィヒロベルト・シューマンが創刊。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E9%9B%91%E8%AA%8C

彼の文章は情熱的で、音楽家への愛にあふれている。
ただ、演者同士だからこそ言えることもあるし、外側から見る人にしか出来ないこともあるはずで、どちらが正しいとはいえない。

先日亡くなった「ポップ中毒者」こと川勝正幸さんは、後者として偉大な業績を残されている。

川勝 正幸(かわかつ まさゆき、1956年11月21日 - 2012年1月31日)
音楽や映画などサブカルチャーを守備範囲とするライター、編集者。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%8B%9D%E6%AD%A3%E5%B9%B8

評論が職業として成立する以前の評論家というのは、例えば、

「劇場に通いつめて自分なりの審美眼を磨き、公演が終わると近くの飲み屋で語る人。それを聞きたい観客仲間を自然に集めてしまう」
というタイプと、
「その居酒屋を経営している、陽気で演劇好きな親父」
そして
「すこし離れたところで、別の飲み屋をやっている親父。そこには出演者や裏方が集まってくる。親父は寡黙で何も言わないが、絶妙のタイミングで食べ物や飲み物を出してくれる」

などがあげられるだろう。
有吉さんが求めているのは多分、最後の人なのかな、と感じた。

でも、どのタイプもありだと思います。表現者としての覚悟さえできていれば。

個人的には、評論も演者も、「同じ野に咲く違う花」だと思う。
良くも悪くも同じ土壌で育まれる。

バジルとトマトのように、一緒に植えるとよく成長するものもあれば、
真逆の、枯らしあう関係になるものもある。

微妙に違う滋養を必要とし、自分が発したものが相手への栄養になるのが理想なのではないだろうか。

有吉さん、中山さん、まとめを作成して下さった @Tarumizizou さんへ感謝しつつ、後のりでなんかすいません、と謝っておきます。

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