静寂を待ちながら

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吉本隆明さんへ送るラブレター

吉本隆明が亡くなった。


http://www.47news.jp/47topics/e/226748.php


吉本さんの著作や言説にどれだけ救われたか、ここにはとても書ききれない。
うそと気取りのない、澄んだ思想家だった。


しばらくショックで毎日、めそめそ泣き暮らしていた。
周りはあきれ「たかが好きな有名人一人が亡くなっただけで」といった人もいた。
あの時、けっこう飲んでいたのにもかかわらず、奴に手を出さなかった自分を褒めてやりたい。


彼の評論の方法や、ものの考え方は自分の血肉になっている。
様々な著作や言説の場で、


「僕は、ものを考えるときは植物までさかのぼって考える。


僕の大好きな宮沢賢治は、農学者だから鉱物までさかのぼっていたようだ。
ぼくは、そこまで行くと分からないから、植物にしている。」


と話していた。


植物に置き換えて考えると、誤差がなくなり、本質へとたどり着きやすくなる。
出自が詩人であり、かつ東工大出身の彼らしい発想だ。


例えば、「言葉とは何か」という問いには

言葉のいちばんの幹は、
沈黙です。
言葉となって出たものは
幹についている
葉のようなもので、
いいも悪いも
その人とは関係ありません。

吉本隆明の声と言葉』より

吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜 (Hobonichi books)

吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜 (Hobonichi books)

本当の会話は、言葉にしていないところで成立しているもの。


さらには動物も植物も沈黙を持っているのだから、
そこには言葉があるのだ、決して言葉は人間だけの特性ではない、と語る。


もっと広く、「(言語にとって)美とは何か」には

文学における芸術的価値は何か
と言うことに対する僕の答えは、
原則的にいって
「自己表出」だということになります。
(中略)
ひと言でいえば、
自分が自分に問うという
問い方の問題になります。
(中略)
もちろん、物語性は芸術の価値に関与しますけれども、
それは間接的な関与だと考えています。

『日本語のゆくえ』より

日本語のゆくえ

日本語のゆくえ

文学だけでなく、音楽や美術、演劇もしかりだ。
まっすぐに、あるいは複雑に吐露された内面は、時として、数千年後に生まれた誰かを支える豊饒の海にもなる。


ぶれない目線と思想を持つ彼は、私のヒーローだった。


権威にまかれず、生涯を下町のいち市民として過ごした吉本さん。


「僕は無神論者だ」と主張しながら近所の神社の祭りへは嬉々と出掛けたり、
「テレビには出ない」はずなのに、何度も押し掛けてきた電波少年には根負けして、しぶしぶ出ざるを得なかった、と言い訳したり、


そんな人柄がとても魅力的だった。


ご冥福を、心の底よりお祈りします。
どうかどうか、ゆっくり休んで下さい。


そして、もしあの世というものがあるのなら、
いつか死んだときに、あなたのもとへ話を聞きに行ってもよいですか?


合掌。